感謝についての続き

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々

 

前回の記事を書いてから1週間が経った。

 

記事を書いたときはスッキリした気分だったが、

次の日になって釈然としない気持ちになってきた。

 

自分が感覚的に感じていることと書いたことに、なんとなくズレがあるような気がして、でもそれがなんなのか分からないという状態。

 

 

僕は合理的な考え方が好きだが、感覚人間でもある。

やるべきとは思っても、気分が乗らなければ動けない。

 

人が自分に対してどんな感情を抱いているのかも、場の空気を感じて読み取ろうとする。

だから、攻撃的な人や自分を見下してそうな人と過ごす時間は辛い。

 

 

ともかく、こうして文章にすることで、自分の考えの過程を残して後から吟味できるというのは、考えを深める上でとても重要だと思った。

 

前回の記事を読み返して、論理のちぐはぐさが分かったり、実は自分はこんなことを考えていたんだという発見があった。

 

 

1つ、自分で書いていて「よくわからんなー」と思ったことがある。

 

「『人はあるがままに生きている』という考え方が背景にあるから感謝の念を抱くことはないのではないか」

と冒頭で述べたけど、

終盤では「その気持ちはないのに理性で制御して行動するのが人間的」という「あるがまま」とはかけ離れたものを感謝の形とした点。

 

 

「あるがまま」を「やりたいようにやる」ということだと解釈すると、

1つの行動の背景にある「欲求が何であるか」によって話が変わってくる。

 

例えばお年寄りに席を譲るということであれば、

「席を譲りたくないけど、周りの「譲れよ」というプレッシャーを感じて、その圧から解放されたくて譲った」のか

「弱きものに手を差し伸べるという高尚な人間で在りたいと思ったから」

なのか、など同じ人物でも色んな欲求が考えられる。

 

前者なら「本能」に近い「あるがまま」だと言えるし、後者なら「理性」に近い。

 

 

あるがまま=好きなようにやる、を本能的なレベルで捉えるか、理性的な(高尚?)レベルで捉えるかで、自分や篠田さんが「人間をどう見ているのか」や「感謝とは何なのか」をどう考えているのかが変わってくる気がする。

 

(自分で書いていて何が言いたいのかよくわからない)

 

 

後は、感謝の気持ちを「感情として」感じることはあるのか、という疑問が1週間前はあったが、今は「あるかもしれない」と思い始めている。

 

なんというか、何かを達成した瞬間(金メダルを獲るなど)にそれまでの努力や周りの支援の記憶が走馬灯のように思い出されて、

じわ〜っと何かがこみ上げてくるような感覚。

 

その感覚こそが、「感謝の感情」で、その感覚を味わったときに人は「ありがとう」と言いたくなるのかもしれない。

 

 

受験で第一志望に合格したり、サークルで自分で立ち上げた企画がうまくいったときは多少なりともこの感覚を味わった気がする。

 

ただ、自分が自意識過剰だからなのか、自信過剰だからなのか、たぶん人に比べて、その感覚が弱いのだと思う。

 

 

でも、死ぬまでに一度は、洪水のように激しい感謝の感情を味わってみたい。

 

昨日、AbemaTVでやっていたUVERworldの京セラドーム公演で、目を赤らめながら歌っていたTAKUYA∞の姿を見てそう思った。

 

 

ほんとに、こんな記事を誰かに公開して意味があるのかと自分でも思うが、はてなブログはなんか書いていて楽しい。

 

★をつけてもらえるのも嬉しいです。ありがとうございます。

 

いつの日か、ありがとうと言いながら、鼻水を垂らせますように。

 

 

 

 

 

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか?

 

録画していたNHKの対談番組を観た。

www.nhk.or.jp

 

「104歳の芸術家 篠田さん」と「103歳の医師 日野原さん」の対談である。

 

この二人は篠田さんが言うように、正反対の考え方をしているようだが

僕は篠田さんの考え方に非常に共感した。

 

岡本太郎もそうだが、芸術家の自由というか自立した考え方に共感することが多い。

 

 

その中で、特に聞けてよかったなーと思ったのが、篠田さんの

「自分にはあまり感謝の気持ちがない」という言葉だ。

 

ここだけを切り取ると、冷たい人間なのかと思ってしまうが、

その言葉の背景には「人間は皆、あるがままに生きている」という考え方がある。

 

人間はそれぞれ好きなように行動していて、その結果、他の人が助けられたりすることもあるが、それはあくまで自然な成り行きの結果であって「感謝の念を抱く」ということもないのではないか、ということだ。

 

 

僕自身も、こんな匿名のブログでしか言えないが、あまり感謝の気持ちを抱いたことがない。

 

感謝の気持ちがないことに対して、「自分は冷たい人間なのか」とここ最近は悩んでいたが、篠田さんの言葉を聞いて安心した。

 

 

もちろん何かをしてもらったら僕も礼儀として「ありがとう」と言うようにはしている。

 

これは「相手のための嘘」に近いもので、たとえ本心でなかったとしても「ありがとう」と言われたら嬉しいし、相手が「自分のやったことは良かったんだ」納得できるから「ありがとう」と伝えるようにしている。

 

 

ふと思ったが、感謝というのは気持ちよりも「マナー」に近いのかもしれない。

 

例をあげるなら、「ありがとう」と伝えることは「お年寄りに席をゆずる」ことに近いものがある。

 

 

混雑したバスの中で立っているのは、いくら若い人でもしんどい。

 

でも、しんどいけど、自分よりもっとしんどい思いをしてるお年寄りがいたら席をゆずる。

 

本心(純粋な気持ち)は「しんどい」だけど、それでも相手のためを思って席をゆずる。

もしくは「人に良く思われたいから」席をゆずるのかもしれない。

 

 

・・・例をあげてみたが言いたいことが言えてない気がする。

 

言いたいのは、大事なのは「感謝の気持ちを持っている」ことではなく、「感謝していることを伝える」ということなのかな。

 

いくら「席をゆずるべきだ」と内心思っていても、結局ゆずっていなければ、意味がないということだ。

 

僕は「ゆずるべきだ」と思ってなくても、気まぐれにゆずってみた人を評価したい。

 

 

ここまで感謝について論じてきたが、感謝の1つ上の概念には「ギブアンドテイク」というものがあると思う。

 

人がうまく人間関係を構築したり、うまく生きていくためには「感謝すべき」というより「ギブアンドテイクすべき」と言いたい。

 

 

よくYahoo!知恵袋などで、「旦那が感謝してくれなくて不満」という主婦の悩み相談をみるが、これは「感謝がないから」というよりも、単に旦那がギブアンドテイクのバランスを崩しているだけだと思う。

 

主婦は家庭の中で、料理や洗濯や掃除をあくせくと行なっているのに、旦那はそれを手伝うこともせず、むしろ「料理がまずい」だのと文句を言う。

 

 

もちろん旦那は経済的な面で家庭を支えているのだから、本来はギブアンドテイクをしているといえる。

 

ただ、主婦は旦那が仕事で努力している姿を見たことがなく、家でふんぞり返ってる姿しかみることがない。

対して、旦那は主婦の努力を目にしているはずだから、ここで心理的なアンバランスが生じる。

 

客観的にはギブしているけど、主婦目線ではあたかもギブしていないように見えてしまう。

 

だから、旦那は本心からでなくていいから妻に「ありがとう」と伝えるべきなのだ。

関係を壊さないために。

 

 

自分で書いていてかなりスッキリした。

 

「感謝の気持ちを持て」なんて言われてもないものはないんだからどうしようもないと思っていたが、「ギブアンドテイクしろ」と言われたら、誰でも心がけ次第でできると思う。

 

人間が本能を理性で抑えているように、その気持ちはなくともしてもらったことに対してお返しをする。

 

僕はその方がよっぽど人間的だと思うのだ。

 

 

今はまだ感謝の気持ちが沸き起こる感覚を味わったことはないけれど、年をとればそのように感じるようになってくるのかもしれない。

 

他の人にも「感情として、嬉しいとか悲しいとかと同じように、感謝の気持ちを感じたことはある?」と聞いてみたい。

 

ただ下手したら逆に聞き返されて、「冷たい人間だ」と誤解されてしまうかもしれないから、こういう話題こそネットで聞くことなのかもな。

 

そういうわけなので、何かコメントをくだされば喜びます。

 

それでは。

善意と悪意

 

「その人の本性を知るには、言葉ではなく行動を見るべきだ」

 

という考え方がある。

 

僕はずっと「たしかにその通りだな」と思って人を見るようにしていたが

大学で様々なことを学ぶ中で、

「これは違うんじゃないか」と思い始めた。

 

 

行動それ自体ではなく、その行動の裏にある「意図

にこそ、その人の本性があらわれるのではないかと思う。

 

言い換えれば、「善意によって取られた行動」なのか

「悪意によって取られた行動」なのかということである。

 

 

何が善で、何が悪であるかを一般化するのは難しいが

個人それぞれがもつ道徳基準の中で、「これは善だ、悪だ」という感覚は

なんとなく存在していると思う。

 

(余談だが、最近よく話題になる「サイコパス」というのは

個人の道徳基準が他の人と大きく乖離している点で

やっかいな存在であるといえる)

 

人は、自分の道徳基準によって「善だ」とみなされる行動を

基本的にはとっていると思われるが、

その人の本性は「なぜそれが善であるか」という理由に隠れている

ということが言いたい。

 

 

ここまでで、論理構造がややこしくなってしまったが、

意図というよりも「道徳基準」に本性があると言った方が正確かもしれない。

 

わかりやすい例をあげるならば

「人を殺すことが善だ」と思っている人が犯す殺人と

「人を殺すことが悪だ」と思っている人が犯す殺人

が起きたときに、「人を殺した」という行動だけでその人を判断してしまうと

大きく見誤ってしまうことになる。

 

これでは猟奇殺人犯と正当防衛が同じ扱いになってしまう。

 

 

あまり詳しくないが、殺人が起き、刑の重さを決めるとき

犯人の動機や計画性に重点がおかれる。

 

なぜならば、そこに犯人の道徳基準が内包されているからである。

 

道徳基準はその人の根っこであり、今後大きく変わることはない。

 

根っこに毒性があるならば、また新たに毒のある果実が実る、

つまり「再犯性がある」と判断されることになる。

 

 

行動だけで人間性を判断することができないとなれば、

対比される「言葉」の方はどうなのか。

 

悪意と善意という基準でみれば、

「悪意のある言葉」「善意のある言葉」も同じように存在している。

 

人はイヤミを言うこともあれば、優しい言葉をかけることもあるのだ。

 

 

では、言葉も行動も結局本質は同じではないかと思ってしまうが

「意識と無意識」という観点で考えれば少し性質が違ってくる。

 

ごく普通の人が殺人を犯してしまうように、

行動には衝動性、つまり、意識下ではコントロールできない部分がある。

 

対して言葉は、行動よりも意識的なものではないだろうか。

より冷静なものであるともいえる。

 

 

そう考えれば、言葉の方がより冷静な状態で発せられる点で

その人の人間性をよくあらわすのではないだろうか。

 

冷静でない状態は、しばしば「自分を見失う」と表現されるように

衝動性の帯びやすい行動は、人間性を判断するには不向きではないだろうか。

 

 

もう自分でも、何を論じたいのかよくわからなくなってきたので

この辺りで締めようと思う。

 

論理がガタガタなので、読んでくれた人は

僕が何を言いたいのかよくわからなかったかもしれない。

 

ただ、少しでも何かを考えるきっかけぐらいになればと思う。

 

 

そもそもこの記事も、民法の勉強をしているときに

「善意」というキーワードが出てきて、

そこから考えが始まったものだった。

 

また何か思いついたら好きなように書きます。