分からないというスタンス

プログラミングばかりしていると、情緒的な筋力が衰えていくような気がして、もっと定期的に感覚的な内容を書くようにしようと思った。

 

今日はプロフェッショナルの流儀で大河ドラマに出演中の小栗旬が特集されていた。

 

400日の密着取材の中で、彼は問いかけに対して「わからない」と何度も繰り返す。

 

決して鬱陶しさ故に答えるのが面倒といった様子ではなく、色々と思案した挙句に、わからないという結論に至っているようだった。

 

このブログのタイトルと同じく、彼も内省をする人種なのではないかと思う。

 

簡単に結論やスタンスを決めてしまっては、心の奥深くまで届く作品は生まれないのではないのかなとなんとなく想像する。

 

考えた末にこうではないかと思って一定期間試してみて、でも途中で違和感が出てきて、他の結論を探す。それを繰り返すような生き方をしているのではないだろうか。

 

ただ、それが良いのか悪いのかは果たして分からない。そして、良い悪いという判断基準が本質的に必要な場面は、あまりないのではないかとも思う。

 

自分の目的に沿っているか、趣味に合うかというフィットしているかどうかという意味で使うなら正しいかもしれない。

 

でも人生に明確な目的を持っている人なんているのだろうか。たしかに意図的に何か夢のようなものを設定することはできるが、それは自分の視野を狭めて納得感を抱かせるための逃避とも言えて、人生が本来無目的であることから目を瞑って生きている人が大半なように思う。

 

小栗さんの印象的な言葉があって、「それを演じきった先に何があるのか?」という問いに対して、「わからない。でも、自分が通った道は残る」と言っていた。

 

実際には問われなかったが、「では、その残った道には何の意味があるんですか?」と問われたとしても彼はやはり「わからない」と答える気がした。

 

こうやって誰にも読まれない記事を書く意味もわからないし、後で自分が読み返す意味もよくわからない。それでも書こうと思ったのはなぜだろう。

 

彼は最後にプロフェッショナルとは何か?と聞かれて、色々と前置きをした上で、「恩返しです」と答えた。「自分をここまで連れてきてくれた人、応援してくれる人、今も一緒に闘ってくれる人に恩返しをするため」と。

 

ありきたりとも感じられそうな答えだけど、そこには強い実感が伴っていた。他の人と被らないことを言おうとかそんな意思はたぶんなくて、心の底からの思いを表現するに足る言葉がそれだったのだろう。

 

彼の言葉を信じるならば、人生に意味を作り出すのは、偶然の産物である人との交わりなのだと思う。

 

1人で生きているなら、意味なんて必要なくて、ただ目の前の快楽に溺れていればいい。

でも、誰かに何かをしてもらったから頑張っていつか恩を返そう。もしくは与えてもらったものをまた次の誰かに手渡していこう。そんな気持ちがあるだけで、人は意味のない人生を生きていけるのかもしれない。

 

特に結論じみたことは思い浮かばないが、今日感じたことを書き残せたので終わりにする。