集団を変えるには

 

最近、生活の中でテーマにしていることがある。

 

「自分から動くこと」だ。

 

 

先日UVERworldのライブに行ったときのこと。

 

一般販売の余りチケットだったので、

ステージからはかなり遠い席だった。

 

アリーナ席と比べると、やはり観客の熱量が低い。

 

 

僕だけかもしれないが、合いの手を入れるにも

周りが静かだから、つい恥ずかしくなって

自分も大人しくなってしまう。

 

でもそれじゃあ楽しくない。

 

そんな時に思ったのが、

「じゃあ自分が1人で盛り上がれば、

 隣の人もつられて盛り上がってきて

 それがどんどん広がっていくんじゃないか」

ということ。

 

 

盛り上がってるアリーナ席の方だって、

誰かが最初に口火を切って盛り上げ始めたはずだ。

 

今までは無意識のうちに

「最初の誰か」が現れるのを待っていたが、

それでは何も変えられないんだと気づいた。

 

 

大学に通っていても、

「最初の誰か」が現れる場面がたくさんあることに気づく。

 

通学バスの中で、「次とまります」ボタンを押す人。

 

グループ学習で、「あなたはどう思う?」と投げかける人。

 

講義の終わりの質問タイムで誰も挙げない中、手を挙げる人。

 

 

一方で、待っているだけの人たちは

「誰か止まるボタン押せよ」

「誰か話し始めろよ」

「誰か手あげろよ」

と思いながらも、自分は何もしない。

 

 

本当に根っからの人任せで、

強制されないとやらない人は仕方ないのかもしれない。

 

でも、心のどこかで「自分がやるべき」だと思っているのに

勇気が出なくてやれない人がいるのはもったいない。

 

 

なら、まずは僕が勇気を出して「最初の誰か」になれば

その姿を見て、「自分もやってみよう」と思う人がきっといるんじゃないか。

 

そうやって、1人の行動の影響が波紋のように広がって

集団が変わっていくのだと思う。

 

書く自信

 

前回の更新から1ヶ月半過ぎてしまった。

 

書こうかなと思ったときもあったが、

なぜか書けなかった。

 

 

僕は学ぶのが大好きな人間なので、

人のブログや本を大量に読む。

 

「ためになるなあ」と思いながらも

「自分はこんなにうまく書けない」

と比較して自信を失ってしまうことも多い。

 

 

今は個人が情報発信をしやすくなり

これまで隠れていた論客がどんどん出てきている。

 

イケダハヤトやはあちゅうなど

「ブロガー」を名乗る人も増えてきて

まさにブロガー戦国時代だ。

 

そんな中で、自分の意見はどれぐらい有用なのか

どうしても考えてしまう。

 

 

どの分野においても、食っていくためには

競争を勝ち抜いていかないといけないと思う。

 

アーティストしかり、営業マンしかり、学者しかり。

 

 

「ナンバーワンじゃなくて、オンリーワンを目指せ」

なんてよく言われるけど、

ただのオンリーワンでは食っていけないんじゃないか。

 

例えば、「パンツ一丁で講義をする大学教授」は

オンリーワンかもしれないけど、

だからと言って生徒に価値を与えられているわけではない。

 

話が抜群に面白いとか、講義資料がすごくわかりやすいとか

そういう軸でオンリーワンにならないと意味がない。

 

「ナンバーワンになれるようなオンリーワン」

じゃないといけないということだ。

 

 

「ブログを書く」ということに戻ると、

他の人よりも質が高く

かつ

価値を感じてもらえるようなコンテンツは何か。

 

そういうことをつい考えてしまうから、

こんな100人も見ていないブログの記事を書くことに

躊躇してしまう。

 

 

僕は80年ものうのうと生きるつもりはないし、

そんなに長く生きられるとも思っていない。

 

だって、信号をひとつ渡るたびに

暴走した車が突っ込んでくるかもしれないから。

 

今日の帰り道に死んでしまう可能性もゼロじゃない。

 

 

でも、死ぬまでに何かを残したいと強く思う。

 

自分はまだまだ未熟で、考えも知識も経験も全然足りてない。

 

そんな現状で、自分はいったい誰の役に立てるのか。

 

 

今は力がないから、

目の前にある小さなことから始めていかないといけないのだろう。

 

それはわかっているのだが、

その「小さなこと」の積み重ねが

後の「大きなこと」になるのであれば、

何を積み上げていくのかも考えないといけない。

 

 

悩みは尽きないけど、こうしてブログを書くことで

やはり自分の頭の中が整理されてくるので、

また定期的に書こうと思う。

 

本当にわからないことだらけなので、

記事を読んでいて「こうなんじゃないか」と思った

好きにコメントしてください。

 

それでは。

 

目上・目下のコミュニケーション

 

相変わらずコミュニケーションについての悩みは尽きない。

 

平日は毎日大学に通うようになったので、

知り合いと食堂でランチをする機会が増えた。

 

同い年の友達は、まあ無難に話せているなと思うのだが

年上、年下とのコミュニケーションはどうも難しく感じる。

 

 

僕は年の上下だけで尊敬したりされたりするのは違うと思っているので

「下級生には上から目線で、上級生にはへり下る」

という態度がどうも気にくわない。

 

とはいえ、ずっとそういう文化の中で過ごしてきたせいか

無意識のうちに僕も下級生に対して上から目線になっていたりする。

 

 

今日は1つ上の上級生とお話したが、

僕に対して「教えている」という姿勢が常にある。

 

もちろん僕にプラスになるものを与えようとしてくれているのはわかるし、

ありがたいことだとは思う。

 

ただ、高校生と小学生というほどの差ならまだしも

大学の学年が1つ違うことなど微々たる差でしかない。

 

一方、僕に対する下級生の子も同様で、

僕が上級生だからという理由だけで

本当は言いたいことがあるのに

何かをこらえて接してくれている気がする。

 

 

この国の「年上には敬語を使う」という文化は

コミュニケーションに自然と「上下の関係」を発生させてしまう。

 

この上下の関係が生産性のある会話を妨げていると思う。

 

僕ら日本人の年上、年下の話し合いにおいて

年上の意見は「正しい」し、年下の意見は「未熟である」

というような意識がどこかにあるのではないだろうか。

 

 

仮にAさん(20歳)とBさん(30歳)の会話があったとして、

一般的にはこう考えられる。

 

「Bさんの方が10年も長く生きているのだから

 Aさんよりもまともな意見を持っているだろう」

 

(細かい設定はおいておく)

 

 

だが、ここで忘れがちなのは

AさんとBさんはこれまでに違う環境で育ち

違う経験をし、違う知識を得ているということだ。

 

小学生の経験の積み上げは大したことないかもしれないが

20年も積み重ねれば、必ずBさんよりも優れた分野があるはずだ。

 

もちろん物事に対する感性や考え方も

人によって全然違う。

 

 

このような前提を無視して、

「年上は年下よりも人として上なんだ」

という固定観念をもつのは残念きわまりない。

 

ちなみに僕はいま高校2年生の家庭教師をしているが

僕からすればその子は尊敬できる面をたくさん持っている。

 

だから、命令するような口調では絶対に教えないし

常に「一緒に知恵を絞ろう」というスタンスで指導している。

 

 

この会話様式はもはや日本の文化なので、

「明日から敬語禁止!」なんていうのは無謀な話だ。

 

少なくとも僕は年の差は関係なしに

「一人の人間として尊重する」

という態度を忘れないようにしたい。

 

 

【余談】

 

アメリカがあれだけ発展したのは

英語が基本的に上下を感じさせない言語だからではないだろうか。

 

個人の尊厳が重視され、

年齢差があってもフランクな会話ができるアメリカ人は

日本よりよっぽど率直に意見交換ができるのだろう。

 

英語にもアメリカにも詳しくないので

ただの推測でしかありませんが・・・