絶望から何かは始まるのか

 

このブログを書くときはいつもひどく疲れたときか落ち込むような出来事があったときだ。

 

今回もその例にもれない。

 

在宅勤務が始まっておよそ2ヶ月が経過したある日の夕方、急に何もやる気が起きなくなって仕事を早めに切り上げさせてもらうことにした。

 

異変を察知した部長が人事部長に飲みの席で相談したところ、結果的に異動しようということになった。

 

僕は昨年7月に初配属された部署を10月に異動しているため、新卒入社2年目にしてもう2回も異動することになってしまった。

 

まあそれほど面白みを感じることができない業務で、部署のメンバーもなんだか価値観が合わないと感じていたから異動自体は特段残念なことではない。

むしろもっと面白い仕事に挑戦できる新たな機会といえる。

 

ただ、問題なのは、どうやら僕のことを欲しがっている部署は1つもないらしかった。

 

書いているだけでも情けなくなってくるが、部署外の人とのやりとりにおいても報連相ができてなかったり、やりますと言ったことをやらなかったりして、信頼を積み上げるどころか入社時から現在に至るまで期待を裏切り続けてしまったのだから仕方がない。

 

過去の記事にも書いたが、決められたルールを守ったり周囲に歩調を合わせたり、計画的に継続的に物事を遂行するということがどうしてもできない。

1ヶ月だけそうしろと言われたら精神をすり減らしながらできるかもしれないが、1年も品行方正に決まりを守り続け、着実にやっていくなんて気が遠くなる。

 

努力が足りない。努力から逃げている。

というならそうなのかもしれない。仕事は他者と協働して行うものである以上、好き勝手にやりたいことだけやりたいようにやるなんて現実的じゃない。

優秀なエンジニアや才能ある芸術家のような傑出した能力でもない限り、1人だけ特別扱いをされることはないだろう。

 

ではどうすればいいのか。できるだけ自分を曲げずにすむような環境を選ぶこと。

作業自体が楽しいと思えてどんどん新しいことを学んでいきたいと思える分野なら多少の報連相や義務は我慢してできるのかもしれない。

 

あとはそもそも報告対象を減らすという観点で、もっと人員の少ない組織で働くか。

 

「誰も僕を必要としていない」という感傷的なフレーズが頭の中を渦巻いて、白か黒かという考えになり「どうせ自分は何をやってもダメなんだ。社会不適合者なんだ」と結論づけてしまいそうになる。

 

でも冷静に考えれば、単に相性の問題だったり、自分の弱点が致命的にならないような価値尺度の環境に身をうつせば今のような状況には陥らない可能性もある。

 

僕は何もかもを試したのか?いや、まだ1社しか経験してないし、期間も1年足らずだ。

人生が100年あるのなら、あと75%。スマホのバッテリー残量なら、「まだ十分に残ってる」と思っていい数字だ。

 

自暴自棄になるのはまだ早い。仮に目もあてられないような低評価だったしたら、それはそれで人生のネタになる。

ここからもっとやりがいがあって、大きな成果を残せるようになれば、厚みのある人間になれる気がする。

 

人間はそれぞれ似た部分も多いが、微妙な差異がある。そのわずかな差異が大きな違いを生み出す。よくも悪くも。置かれた環境や条件によって。

 

とにかく自分を否定しないことだ。諦める必要もない。亡くなったおばあちゃんが好きだった美空ひばり川の流れのようにではないが、常に自分自身も世界も流れていて変化している。

 

だから、過去の自分がどうだからなんて関係ない。これから変わっていけばいい。

今が始まりだと思ったときが新たなスタートだ。誰かによーいドンなんて言われなくても、いつ新たな一歩を踏み出すかは自分で決められる。

 

誰もまだ知らない明日にはどんな展開が待っているのか。楽しもう。

いつまでたっても心のままに生きられない

 

朝起きて絶望する。

 

熱いシャワーを浴びて、コーヒーを飲めば目は覚める。

少しテンションが上がってやっぱりあの絶望は

低血圧によるものだと思うことにする。

 

別に悪いことをしているわけじゃない。

たまにお客さんから褒められたり受注が取れたりして

少しばかりの達成感を得られることもある。

 

でも、心の底からの喜びは全く湧き上がってこない。

全くもって純粋に何かを成すことなんてできるのだろうか。

 

表面上は優しいあの人と一緒にいると心が疲れているのはなぜだろう。

何も言わずとも表情や仕草がうるさいほどに何かを物語っていて

別に知りたくもないのに自分の脳みそは敏感にそれをキャッチする。

 

一人でいたところで寂しくなってきて、働かなければ借金地獄に陥って

自己嫌悪と無気力状態にさいなまれる。

 

だからこそ、自分の心が躍動するようなことで生きていくことができたら。

人生は劇的なことばかりじゃない。些細な日常の積み重ねがあって、

その尊さを味わえるのが幸せな人生ってやつなんだろうか。

 

昨日は雨が降っていて、今日は晴れていた。

ただそれだけでなんだか良い気分だったことも確かだ。

 

ドーパミンに支配されている。1杯の酒で理性を失って、刺激的なYouTube動画を延々とループしてしまう。

何か理性を取り戻す手段はないかと思い立ってブログを書くことにした。

 

なんか言い回しにこだわりすぎた。僕は別に詩人じゃない。何をかっこつけているんだ。誰に対してかっこつけようとしているんだ。

 

自意識、人に気をつかいすぎる。別に気にしなくたっていいのに。

なんで人の顔色ばかりうかがっているんだろう。

どうしていつも人といて居心地が良くないんだろう。なぞの不安と恐怖に包まれている。

 

じゃあ明日から人のことなんてどうだっていいと思えばいいと

そんな考えもなんだか幼稚で、そもそも何回もそんなアイデアを繰り返しては

結局いつも元どおりになる。

 

心を打つなにか。

こんな言葉遊びに何も未来はない。

実際に行動にうつして、この目で見て、感じなければ。

 

だから、とりあえず寝る。

あなたにできないこと

立派な人にできないことがあるって知ったとき

急に親近感が湧いてくるのは僕だけだろうか。

 

生きていれば色んな後悔に直面するし、

誰かと比べて、焦って、もう何もかも投げ出してしまいたくなる時もある。

 

ところで僕は、1ヶ月間禁止していたお菓子を

バクバクと食べてしまっている。

これまでの分を取り戻すかのような勢いで。

 

我慢すること、計画通りに着実に動くこと。

何度トライしても僕はそれができない。

 

頭の良さなんて関係なく、冷静に計画して準備して

変な欲望に踊らされることなく生きていけることが

この世界においては賢いし、成功者になれるのだと思う。

 

だけど、できないことはやっぱりできない。

無理に抗おうたって20年以上積み上げてきた何かは

そう簡単には壊れてくれない。

 

でもだからといって何もできないわけじゃない。

物事には両面があるから。

 

できないことを受け入れる。そこに個性がある。

それが人間的ってものだ。

 

いつにも増して支離滅裂。

何の価値も生まない文章。

だけど無から有を生み出したということは確かだ。

 

文章の中にあるリズム。

もしかしたら重要なのは意味じゃなかったのかもしれない。

そろそろ風呂に入ろうか。