格言や諺の危険性
マーケティングの授業を受けていて思ったこと。
マーケティングには様々な理論やモデルがあるが、
それらは複雑な市場や消費者心理を読み解くためのものである。
また、理論を使って考える際にもしっかりと仮説と検証を行う必要があり、
その効果は考察者が「どのような仮説を立てるか」「どのように検証し、結果を解釈するか」によるところが大きい。
つまり、知識を詰め込んで「お勉強」するだけでは、マーケティングの理論を効果的に使用することはできないということだ。
理論やモデルは確かに便利だが、使用者が「自分で深く考える」というプロセスを経なければ意味のないものになってしまう。
タイトルには「格言や諺の危険性」と書いたが、
何が危険かというと「現実を極端に単純化して捉えることで、誤った判断をしてしまう」ことだ。
(格言や諺は冒頭の話でいう、「理論」「モデル」にあたる)
例えば、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺がある。
これは組織に関する話題で、「大きな団体の属員となるより、小さな団体でもその頭(かしら)になる方がいい」という意味で使われることが多い。
わかりやすくいえば、「大企業の平社員になるより、小さくてもベンチャーの社長の方がいいよ」というようなことだ。
僕が就活で企業の合同説明会に行くと、ベンチャー企業のプレゼンで「鶏口となるも・・・」という諺が飛び出すことがある。
「大企業に比べて、うちの会社なら成果を出せばどんどん昇進できるよ。歯車になるより、役員の方がいいよね?」ということが言いたいのである。
人によっては早く上に行きたいという場合もあるが、もちろん全員がそうではない。
例えば「仕事のやりがい」より「ワークライフバランス」なんかを重視する人は、昇進より「残業がいかに少ないか」が大事になったりする。
それなら激務になりがちなベンチャーより、安定した大企業の方がいいという選択になるはずだ。
しかしもし、本当は「安定」を求めているのに、
「鶏口となるも・・・」という諺を信頼して「これを指針に決めよう」となったら、
ベンチャーを選んでしまうかもしれない。
現実にはこんなバカな選択はしないかもしれないが、
理論(諺)の根拠や正当性も確かめないままに、行動の指針にしてしまってる人は多いのではないだろうか。
僕が趣味でやっている麻雀でもこういうことはよくあって、
「早いリーチはイースーソー(1・4待ち)」みたいな格言を
うちのおじいちゃんは本気で信じていたりする。
何の判断力もない小学生の僕に、おじいちゃんはこういうことを教えるから、たまったもんじゃない。
今では論理的に考えることができるようになったので、「こんな理論はアホだ」と断言できるけど・・・
結論、言いたいことはこうだ。
いくら理論やモデルを覚えたところで、本当の意味で使いこなすためには
「自分の頭で考える」というプロセスが欠かせないということ。
マーケティングは消費者心理などの「雲をつかむようなもの」を扱うことが多いと感じたので、今回のような考えを思いついた。
「社会に出たら『お勉強』ができるだけでは通用しないよ」
とタビオ創業者の越智さんがおっしゃっていたが、その意味が少しわかった気がした。
★補足
<1つ目>
「鶏口牛後」の由来を調べてみたところ、以下のような回答を見つけた。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」…とは、どういう意味ですか?また、読み... - Yahoo!知恵袋
この回答を信頼するなら、「鶏口となるも・・・」という言葉は、大国の配下に下るかどうか迷う王に対して、家臣が「王を説得するために進言した」言葉である。
家臣が「牛後となるな」と言った理由は、「まだ配下に下らなくても大丈夫なこと」、「笑いものになってしまう」というものだった。
要は「プライドの問題」であるとも読み取れる。
つまり、何が言いたいのかというと
「鶏口牛後」を適切に使うとしたら
「牛後でもお前のプライドは傷つかないのか」という意味であって、
雇われ先を探している人に対して「小さな組織でトップやった方が得だよ」という意味ではないということだ。
「鶏口牛後」に従ったとして、存在価値のわからない組織でトップになって威張るより
高い価値を提供している組織を後ろからサポートする方が意義があるんじゃないか。
<2つ目>
諺や格言は「物事を単純化しすぎて誤った判断を招く」という危険性を指摘したが
これは悪い使い方をすれば「人を説得するための武器」にもなりうる。
麻雀ど素人の小学生に対して、「『早いリーチはイースーソー』という格言があるから、早いリーチがきたら警戒しろよ」と言ったらすんなり信じてしまうだろう。
ベンチャーか大企業か迷ってる人に「鶏口牛後だよ」と言ったら、なんとなくベンチャーを選んだ方が良い気がしてしまう。
「根拠がないこと」を知っていながら、「説得するために」格言を使うとしたら
それはとてもズルいことだと思う。
(「根拠がある」と信じて使う無邪気な人の方が多いだろうが)
だから、根も葉もない諺や格言にほだされないように、
「それは確かなのか、自分の頭で考える」という防御策を取れるようにしておきたい。
大学で学ぶ意義を感じた授業
この記事に書いた「2限になったら人がいなくなる授業」を受けてきた。
かなり面白くて、4年生になってようやく大学で学ぶ意義というものがわかってきた気がする。
大学で学ぶ意義とは、「インプットの質を上げること」だと思う。
意義を語る前に目的が必要だが、僕は就活生なので「仕事での成功のために」ということで考えていきたい。
典型的に大企業で管理職になれるのは、ほとんどが大卒であるという。
それがなぜなのかを、今までは「大卒=高卒より頭が良い=優秀?」という短絡的な文脈で捉えていた。
今回は、その「優秀」というのはどういうことなのかを掘り下げる。
優秀と認められるには、「大きな成果を出すこと」が必要である。
そして大きな成果(アウトプット)を出すためには、質の高いインプットが必要だ。
大学で真剣に学べば、「質の高いインプット」ができるようになるのではないか、というのがふと思ったことであり、僕の仮説。
僕が先ほど受けた授業は「外国書購読」という名前で、海外の論文を和訳した上で解釈するというものだ。
要は、自分で海外の文献を調べ読めるようになり、専門知識を自ら取り入れられるようにするというのがこの授業の趣旨である。
題材はポーター仮説で、理解するためには経済学の知識が必要となる。
僕は経営学部生なので、ミクロ・マクロ経済学の基礎は1年生のときに学んだが、正直ほとんど知識がないようなものだ。
今日の授業では、「そもそも科学とは何か、社会科学と自然科学の違いは何か」という大前提から遡って解説してもらえたので、最終的には具体的な回帰分析のモデル(最小自乗法)まで理解することができた。
前提となる知識が頭に入っていれば、具体的なモデルの説明などをされても論理が頭の中で繋がるので、今までにない「面白さ」を感じながら講義を受けられた。
そのときに、「ああ、こういう専門的な論文とかを咀嚼しようと思ったら、大学でしっかり学ばないとダメだな」と4年生にしてようやく気づくことができたのである。
「質の高いインプット」に話を戻すと、「質が高い」とは言い換えれば、
「誰もが入手できたり、理解できる情報ではない」ものであったり、
1つの情報に当たったときに「どれぐらいのレベルで理解できているか」ということだと思う。
社会人でいえば、本格的に学問を修めていない高卒の人は、書店にあるわかりやすいタイトルの付いたビジネス書の内容などからしかインプットすることができないが、
大学でしっかりと学んだ人は、一般人が理解できない論文から情報を得たりできる。
また、同じビジネス書を読んでも、頭の中にある前提知識の多さや、論理的思考力などの違いから、大卒の方が深いレベルで理解することができるだろう。
これが、インプットの差であり、この差が積み重なって、それぞれの「アウトプットの限界」が決まるのだと思う。
もちろん、仕事の中でも学問ではどうにもならないものがある。
例えば、営業職なんかは天性のコミュニケーション能力やルックスの良さなどがあれば、大卒との差なんて目じゃなくなるだろう。
スポーツや芸術も才能の要素が大きいから、いくら理論を知ったところで天才には勝てない。
先ほど教授に教わったが、そもそも科学というのは「誰でも再現できる理論」を導き出すものであるから、
社会科学を学んで得られるスキルというのは誰が学んでも武器になるから「打てば響く」ものであると言える。
ただし、もっと影響力の強い先天的な要素(才能)を持つものには太刀打ちできないということだろう。
うまくまとまっていない気がするが、大学で学ぶことで得られるのは
・幅広い分野の知識のシャワー
・専門的な文献の読み方
・レポートなどを通して得られる論理的に書く力
・講義や文献を咀嚼することを通して得られる論理的思考力
などであり、
こういったものが「インプットの質を上げる器」になるのだろう。
そう考えれば、「どの分野を専攻するか」ということよりも、どんな分野でも「どれぐらい真剣に4年間学んだか」ということの方が、社会に出てから活躍する上で重要なのではないかと思う。
とにかく、今日からいっそう真面目に勉強します。
感謝について その3
「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々
しつこいようだが、夕食をとりながら思いついたことがあるので書く。
2つ目の記事で、本能的な欲求と理性的な欲求があって、どちらの欲求に従った行動を「あるがまま」とするのか、と書いたが、マズローの欲求5段階説を用いれば済むことだった。
前回述べた「理性的な欲求」(お年寄りに席を譲る人間でありたい)は、
マズローの言う「尊敬・評価の欲求」もしくは「自己実現の欲求」に当てはまる。
また、欲求5段階説では、基本的には下から順に満たされていくが、もし下の欲求が満たされていなくても、上の欲求を求めることがある。
例えば、職がなくてロクに食えていない状態でも、愛情を求めたり、名声がほしいという気持ちは多少なりともあるはずだ。
参考ページ:
改めて「マズローの欲求5段階説」を知って人生のモチベーションを高めよう
つまり、人間が「あるがまま(やりたいよう)に行動する」というときには、
本能的なものから理性的なものまで含まれると言えそうだ。
そう考えれば、「人に何かをしてもらったとき」というのは、その人がなんらかの理由(欲求)で「それをやりたかったからだ」ということになる。
それを踏まえて、「人はどういうことをしてもらったときに、心が動かされて感謝の気持ちが芽生えるのか」ということを考えたい。
心が動かない例としては、「ビジネスとして」何かをしてもらったときがあげられる。
目的地まで乗せてくれたタクシーの運転手に「ありがとう」と言いはすれど、じわ〜っと感謝の気持ちを感じたりすることはないだろう。
お金という「対価」を払う以上、運ちゃんがお客を運ぶのは「義務」だから、
単なる「取引」だと普通は考える。
欲求という意味なら、運ちゃんは「お金がほしいから」乗せて行った。
さすがに「お金がほしいからやりました」という人に感動することはないだろう。
逆に心を動かされるときというのは、見返りもなしに(対価なしに)何かをしてもらったときではないだろうか。
道端で急にお腹が痛くなってうずくまっていたら、「大丈夫ですか?」と通りすがりの人に声をかけてもらえた。挙句の果てに介抱までしてもらえた。
こんなことがあれば、誰でも「ありがたいなー」と感謝の気持ちを抱くことだろう。
さっきの欲求説を踏まえれば、助けてくれた人は何かの欲求があってしてくれたといえる。
でも「お金がほしい」とか自分のための行動とは考えづらいから、優しさを感じて、感謝の気持ちが芽生えるのだろう。
こういうときに、助けてもらった側の心理状態をもう少し分析すると、
「優しくしてもらって嬉しい」という気持ちと、「助かったーという安心感」と「こっちは何もしてないのに、申し訳ない」という気持ちが入り混じっている。
で、「ありがとう」と言いたくなる元は、3つ目の「申し訳ない」という気持ちからきてるんじゃないか。
言いかえれば、「テイクだけして、相手にギブできていない状態」に居心地の悪さを感じているということだ。
今すぐには何かお返しできないけど、少なくとも「あなたのおかげだ」ということを伝えたいから、「ありがとう」と言う。
もちろん、さっきも言ったように「申し訳ない」気持ちだけではないと思う。
感謝するときに出てくる涙は、「嬉しい」とか「安心感」からきているものだろう。
ただ、それらの中でベクトルが相手に向かっているのが「申し訳ない」という気持ちではないかということが言いたい。
グダグダと書いたけど、感謝が足りない人は、相手に「申し訳ない」と感じていなくて、「与えてもらって当然」という考えでいるからなんじゃないかな。
<これをしてもらえて当たり前>
のその「当たり前」の基準がどこにあるのか、そこが感謝の気持ちを持つかどうかの分かれ目なんだろう。
自己啓発本に書かれていた、
『「有難い」の反対は「当たり前」である』というのはこういうことだったんだな、と理解できた気がする。
P.S.
文章の語尾を自然な形にするのって難しい。だろう、だろう、としつこい文章になってしまった。
あと、やっぱり論理構成がめちゃくちゃだ。
ちゃんとノートに下書きしたりしてから書くべきなんだろうけど、思いついたままに書くとこうなる。でも下書きするのはめんどくさい。
ふだん本やブログで読んでるわかりやすい文章のすごさを改めて感じた。