感謝について その3

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々

 

感謝についての続き - 内省の日々

 

しつこいようだが、夕食をとりながら思いついたことがあるので書く。

 

 

2つ目の記事で、本能的な欲求と理性的な欲求があって、どちらの欲求に従った行動を「あるがまま」とするのか、と書いたが、マズローの欲求5段階説を用いれば済むことだった。

 

前回述べた「理性的な欲求」(お年寄りに席を譲る人間でありたい)は、

マズローの言う「尊敬・評価の欲求」もしくは「自己実現の欲求」に当てはまる。

 

また、欲求5段階説では、基本的には下から順に満たされていくが、もし下の欲求が満たされていなくても、上の欲求を求めることがある。

 

例えば、職がなくてロクに食えていない状態でも、愛情を求めたり、名声がほしいという気持ちは多少なりともあるはずだ。

 

参考ページ:

改めて「マズローの欲求5段階説」を知って人生のモチベーションを高めよう

 

 

つまり、人間が「あるがまま(やりたいよう)に行動する」というときには、

本能的なものから理性的なものまで含まれると言えそうだ。

 

そう考えれば、「人に何かをしてもらったとき」というのは、その人がなんらかの理由(欲求)で「それをやりたかったからだ」ということになる。

 

 

それを踏まえて、「人はどういうことをしてもらったときに、心が動かされて感謝の気持ちが芽生えるのか」ということを考えたい。

 

 

心が動かない例としては、「ビジネスとして」何かをしてもらったときがあげられる。

 

目的地まで乗せてくれたタクシーの運転手に「ありがとう」と言いはすれど、じわ〜っと感謝の気持ちを感じたりすることはないだろう。

 

お金という「対価」を払う以上、運ちゃんがお客を運ぶのは「義務」だから、

単なる「取引」だと普通は考える。

 

 

欲求という意味なら、運ちゃんは「お金がほしいから」乗せて行った。

 

さすがに「お金がほしいからやりました」という人に感動することはないだろう。

 

 

逆に心を動かされるときというのは、見返りもなしに(対価なしに)何かをしてもらったときではないだろうか。

 

道端で急にお腹が痛くなってうずくまっていたら、「大丈夫ですか?」と通りすがりの人に声をかけてもらえた。挙句の果てに介抱までしてもらえた。

 

こんなことがあれば、誰でも「ありがたいなー」と感謝の気持ちを抱くことだろう。

 

 

さっきの欲求説を踏まえれば、助けてくれた人は何かの欲求があってしてくれたといえる。

でも「お金がほしい」とか自分のための行動とは考えづらいから、優しさを感じて、感謝の気持ちが芽生えるのだろう。

 

 

こういうときに、助けてもらった側の心理状態をもう少し分析すると、

「優しくしてもらって嬉しい」という気持ちと、「助かったーという安心感」と「こっちは何もしてないのに、申し訳ない」という気持ちが入り混じっている。

 

で、「ありがとう」と言いたくなる元は、3つ目の「申し訳ない」という気持ちからきてるんじゃないか。

 

言いかえれば、「テイクだけして、相手にギブできていない状態」に居心地の悪さを感じているということだ。

 

今すぐには何かお返しできないけど、少なくとも「あなたのおかげだ」ということを伝えたいから、「ありがとう」と言う。

 

 

もちろん、さっきも言ったように「申し訳ない」気持ちだけではないと思う。

 

感謝するときに出てくる涙は、「嬉しい」とか「安心感」からきているものだろう。

 

ただ、それらの中でベクトルが相手に向かっているのが「申し訳ない」という気持ちではないかということが言いたい。

 

 

グダグダと書いたけど、感謝が足りない人は、相手に「申し訳ない」と感じていなくて、「与えてもらって当然」という考えでいるからなんじゃないかな。

 

<これをしてもらえて当たり前>

のその「当たり前」の基準がどこにあるのか、そこが感謝の気持ちを持つかどうかの分かれ目なんだろう。

 

自己啓発本に書かれていた、

『「有難い」の反対は「当たり前」である』というのはこういうことだったんだな、と理解できた気がする。

 

 

P.S.

文章の語尾を自然な形にするのって難しい。だろう、だろう、としつこい文章になってしまった。

 

あと、やっぱり論理構成がめちゃくちゃだ。

ちゃんとノートに下書きしたりしてから書くべきなんだろうけど、思いついたままに書くとこうなる。でも下書きするのはめんどくさい。

 

ふだん本やブログで読んでるわかりやすい文章のすごさを改めて感じた。

なぜ(僕の学部の)学生は授業を真剣に聞かないのか

 

今日は午前中に1・2限の連続授業があって、今は昼休みだ。

 

1限の授業には出席点があるが、「2限は出席を取らない」と教授が言うと、

僕以外の学生は帰ってしまった。(1限は20人ぐらいいた)

 

2限は補足的な内容なので、授業に出なくてもテストで点は取れる。

 

1対1で講義を受けられたので、質問できたり、教授と小話ができて

濃い学びがあったので結果的には良かった。

 

 

しかし、なぜうちの学部の学生は熱心に授業を受けないのか疑問に思った。

 

ちなみに僕は経営学部で、教授が自称するところによれば

経営学分野で日本最高水準の教授陣を揃えている。

 

本来ならもっと熱心に学ぶ学生がいてもいいはずだ。

(もちろん一定数は存在している)

 

 

前にも書いた気がするが、うちの教授は「なぜこれを学ぶのか」という講義の目的を話すことがあまりない。

 

学ぶ側のモチベーションを高める要素として、学ぶ意義を伝えることは重要なはずなのにあまり話されない。

 

これがなぜなのかと長らく疑問に思っていたが、今日の教授との小話で少し見えてきたものがあった。

 

 

理由は大きく2つあると思う。

 

1つは、学生が大学に学びに来る目的が多様であること。

 

僕みたいに「①起業したくてビジネスを学びたい」という人もいれば、「②会計学を学んで公認会計士になりたい(資格を取りたい)」人や、「③経営学部は就活で潰しが効く」という人、「④学者・研究者になりたい」という人もいる。

 

パイの大きさとしては③の層が圧倒的に多いように思う。

 

(入学前のイメージでは①の人が多いのかなと思っていただけにがっかりした)

 

このように、学ぶ側の目的が多様だから、教える側も「このために学ぶ」と明確に定義することが難しいのだろう。

 

 

もう1つは、学部として「学部生にどうなってもらいたいのか」というビジョンが明確に定まっていない、もしくはうまく浸透していないこと。

 

ビジョンのあるなしでどう変わるのかというと、

例えば、「花を育てること」を学ぶ学部があったして、「とにかく大きな花を咲かせられる人材を育てる」というビジョンが学部レベルで設定されていれば、「水のやり方」や「肥料の使い方」などの個々の授業も、同じ方向を向いた話になるはずだ。

 

学生側も「大きな花を咲かせるために、これを学んでいるんだな」と分かるから、意欲を持って学ぶことだろう。

 

 

入学時のガイダンスで、学部長がこういった話をしていた気がするが、

経営学の知識が皆無で、かつ「偉い人の退屈なオハナシ」と思っていた僕らには到底伝わらない。

 

だから、学ぶ目的をうまく設定できない僕らは、「単位を取ること」を第一目的にして授業を受けることになってしまう。

 

今朝の例も、「出席点がないから」みんな帰ってしまったのだ。

(資格試験の勉強をしたいとか、他の授業の宿題がある人もいるだろうが)

 

 

ではこの「学ぶ目的の見えない学生たち」を減らすにはどうすればいいのか。

 

根本から変えるには、大学ではなく、小中高の教育まで遡らなければいけないように思う。

 

どこかのタイミングで、大学での学びについて情報を与えてもらえていれば、

ある程度は目的を持って学べる学生が増えるのではないだろうか。

 

 

僕なんかは、「金持ちになりたい→社長になればなれるかも→社長=経営者→経営学を学ぼう」というかなり短絡的な理由だったが、経営学を学ぶ強いモチベーションになっていた。

 

大学に入ってからは、たくさん本を読んだり、賢い友達に出会ったり、教授の話を聞いたりしているうちに徐々に「金持ちになりたい」以外の学ぶ目的が定まっていった。

 

 

ただ、僕みたいに考えを巡らすのが好きな人は自然とそうやって学ぶ目的を見つけていけるのだろうけど、そうじゃない人たちはなかなか難しいんじゃないのか。

 

特に③の「潰しが効くから」という理由で選んだ人などは。

 

 

今のところ解決策はあまり分からないが、いち学生でも何か変えられる部分がないか

引き続き考えていきたい。

 

感謝についての続き

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々

 

前回の記事を書いてから1週間が経った。

 

記事を書いたときはスッキリした気分だったが、

次の日になって釈然としない気持ちになってきた。

 

自分が感覚的に感じていることと書いたことに、なんとなくズレがあるような気がして、でもそれがなんなのか分からないという状態。

 

 

僕は合理的な考え方が好きだが、感覚人間でもある。

やるべきとは思っても、気分が乗らなければ動けない。

 

人が自分に対してどんな感情を抱いているのかも、場の空気を感じて読み取ろうとする。

だから、攻撃的な人や自分を見下してそうな人と過ごす時間は辛い。

 

 

ともかく、こうして文章にすることで、自分の考えの過程を残して後から吟味できるというのは、考えを深める上でとても重要だと思った。

 

前回の記事を読み返して、論理のちぐはぐさが分かったり、実は自分はこんなことを考えていたんだという発見があった。

 

 

1つ、自分で書いていて「よくわからんなー」と思ったことがある。

 

「『人はあるがままに生きている』という考え方が背景にあるから感謝の念を抱くことはないのではないか」

と冒頭で述べたけど、

終盤では「その気持ちはないのに理性で制御して行動するのが人間的」という「あるがまま」とはかけ離れたものを感謝の形とした点。

 

 

「あるがまま」を「やりたいようにやる」ということだと解釈すると、

1つの行動の背景にある「欲求が何であるか」によって話が変わってくる。

 

例えばお年寄りに席を譲るということであれば、

「席を譲りたくないけど、周りの「譲れよ」というプレッシャーを感じて、その圧から解放されたくて譲った」のか

「弱きものに手を差し伸べるという高尚な人間で在りたいと思ったから」

なのか、など同じ人物でも色んな欲求が考えられる。

 

前者なら「本能」に近い「あるがまま」だと言えるし、後者なら「理性」に近い。

 

 

あるがまま=好きなようにやる、を本能的なレベルで捉えるか、理性的な(高尚?)レベルで捉えるかで、自分や篠田さんが「人間をどう見ているのか」や「感謝とは何なのか」をどう考えているのかが変わってくる気がする。

 

(自分で書いていて何が言いたいのかよくわからない)

 

 

後は、感謝の気持ちを「感情として」感じることはあるのか、という疑問が1週間前はあったが、今は「あるかもしれない」と思い始めている。

 

なんというか、何かを達成した瞬間(金メダルを獲るなど)にそれまでの努力や周りの支援の記憶が走馬灯のように思い出されて、

じわ〜っと何かがこみ上げてくるような感覚。

 

その感覚こそが、「感謝の感情」で、その感覚を味わったときに人は「ありがとう」と言いたくなるのかもしれない。

 

 

受験で第一志望に合格したり、サークルで自分で立ち上げた企画がうまくいったときは多少なりともこの感覚を味わった気がする。

 

ただ、自分が自意識過剰だからなのか、自信過剰だからなのか、たぶん人に比べて、その感覚が弱いのだと思う。

 

 

でも、死ぬまでに一度は、洪水のように激しい感謝の感情を味わってみたい。

 

昨日、AbemaTVでやっていたUVERworldの京セラドーム公演で、目を赤らめながら歌っていたTAKUYA∞の姿を見てそう思った。

 

 

ほんとに、こんな記事を誰かに公開して意味があるのかと自分でも思うが、はてなブログはなんか書いていて楽しい。

 

★をつけてもらえるのも嬉しいです。ありがとうございます。

 

いつの日か、ありがとうと言いながら、鼻水を垂らせますように。