「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか?

 

録画していたNHKの対談番組を観た。

www.nhk.or.jp

 

「104歳の芸術家 篠田さん」と「103歳の医師 日野原さん」の対談である。

 

この二人は篠田さんが言うように、正反対の考え方をしているようだが

僕は篠田さんの考え方に非常に共感した。

 

岡本太郎もそうだが、芸術家の自由というか自立した考え方に共感することが多い。

 

 

その中で、特に聞けてよかったなーと思ったのが、篠田さんの

「自分にはあまり感謝の気持ちがない」という言葉だ。

 

ここだけを切り取ると、冷たい人間なのかと思ってしまうが、

その言葉の背景には「人間は皆、あるがままに生きている」という考え方がある。

 

人間はそれぞれ好きなように行動していて、その結果、他の人が助けられたりすることもあるが、それはあくまで自然な成り行きの結果であって「感謝の念を抱く」ということもないのではないか、ということだ。

 

 

僕自身も、こんな匿名のブログでしか言えないが、あまり感謝の気持ちを抱いたことがない。

 

感謝の気持ちがないことに対して、「自分は冷たい人間なのか」とここ最近は悩んでいたが、篠田さんの言葉を聞いて安心した。

 

 

もちろん何かをしてもらったら僕も礼儀として「ありがとう」と言うようにはしている。

 

これは「相手のための嘘」に近いもので、たとえ本心でなかったとしても「ありがとう」と言われたら嬉しいし、相手が「自分のやったことは良かったんだ」納得できるから「ありがとう」と伝えるようにしている。

 

 

ふと思ったが、感謝というのは気持ちよりも「マナー」に近いのかもしれない。

 

例をあげるなら、「ありがとう」と伝えることは「お年寄りに席をゆずる」ことに近いものがある。

 

 

混雑したバスの中で立っているのは、いくら若い人でもしんどい。

 

でも、しんどいけど、自分よりもっとしんどい思いをしてるお年寄りがいたら席をゆずる。

 

本心(純粋な気持ち)は「しんどい」だけど、それでも相手のためを思って席をゆずる。

もしくは「人に良く思われたいから」席をゆずるのかもしれない。

 

 

・・・例をあげてみたが言いたいことが言えてない気がする。

 

言いたいのは、大事なのは「感謝の気持ちを持っている」ことではなく、「感謝していることを伝える」ということなのかな。

 

いくら「席をゆずるべきだ」と内心思っていても、結局ゆずっていなければ、意味がないということだ。

 

僕は「ゆずるべきだ」と思ってなくても、気まぐれにゆずってみた人を評価したい。

 

 

ここまで感謝について論じてきたが、感謝の1つ上の概念には「ギブアンドテイク」というものがあると思う。

 

人がうまく人間関係を構築したり、うまく生きていくためには「感謝すべき」というより「ギブアンドテイクすべき」と言いたい。

 

 

よくYahoo!知恵袋などで、「旦那が感謝してくれなくて不満」という主婦の悩み相談をみるが、これは「感謝がないから」というよりも、単に旦那がギブアンドテイクのバランスを崩しているだけだと思う。

 

主婦は家庭の中で、料理や洗濯や掃除をあくせくと行なっているのに、旦那はそれを手伝うこともせず、むしろ「料理がまずい」だのと文句を言う。

 

 

もちろん旦那は経済的な面で家庭を支えているのだから、本来はギブアンドテイクをしているといえる。

 

ただ、主婦は旦那が仕事で努力している姿を見たことがなく、家でふんぞり返ってる姿しかみることがない。

対して、旦那は主婦の努力を目にしているはずだから、ここで心理的なアンバランスが生じる。

 

客観的にはギブしているけど、主婦目線ではあたかもギブしていないように見えてしまう。

 

だから、旦那は本心からでなくていいから妻に「ありがとう」と伝えるべきなのだ。

関係を壊さないために。

 

 

自分で書いていてかなりスッキリした。

 

「感謝の気持ちを持て」なんて言われてもないものはないんだからどうしようもないと思っていたが、「ギブアンドテイクしろ」と言われたら、誰でも心がけ次第でできると思う。

 

人間が本能を理性で抑えているように、その気持ちはなくともしてもらったことに対してお返しをする。

 

僕はその方がよっぽど人間的だと思うのだ。

 

 

今はまだ感謝の気持ちが沸き起こる感覚を味わったことはないけれど、年をとればそのように感じるようになってくるのかもしれない。

 

他の人にも「感情として、嬉しいとか悲しいとかと同じように、感謝の気持ちを感じたことはある?」と聞いてみたい。

 

ただ下手したら逆に聞き返されて、「冷たい人間だ」と誤解されてしまうかもしれないから、こういう話題こそネットで聞くことなのかもな。

 

そういうわけなので、何かコメントをくだされば喜びます。

 

それでは。

善意と悪意

 

「その人の本性を知るには、言葉ではなく行動を見るべきだ」

 

という考え方がある。

 

僕はずっと「たしかにその通りだな」と思って人を見るようにしていたが

大学で様々なことを学ぶ中で、

「これは違うんじゃないか」と思い始めた。

 

 

行動それ自体ではなく、その行動の裏にある「意図

にこそ、その人の本性があらわれるのではないかと思う。

 

言い換えれば、「善意によって取られた行動」なのか

「悪意によって取られた行動」なのかということである。

 

 

何が善で、何が悪であるかを一般化するのは難しいが

個人それぞれがもつ道徳基準の中で、「これは善だ、悪だ」という感覚は

なんとなく存在していると思う。

 

(余談だが、最近よく話題になる「サイコパス」というのは

個人の道徳基準が他の人と大きく乖離している点で

やっかいな存在であるといえる)

 

人は、自分の道徳基準によって「善だ」とみなされる行動を

基本的にはとっていると思われるが、

その人の本性は「なぜそれが善であるか」という理由に隠れている

ということが言いたい。

 

 

ここまでで、論理構造がややこしくなってしまったが、

意図というよりも「道徳基準」に本性があると言った方が正確かもしれない。

 

わかりやすい例をあげるならば

「人を殺すことが善だ」と思っている人が犯す殺人と

「人を殺すことが悪だ」と思っている人が犯す殺人

が起きたときに、「人を殺した」という行動だけでその人を判断してしまうと

大きく見誤ってしまうことになる。

 

これでは猟奇殺人犯と正当防衛が同じ扱いになってしまう。

 

 

あまり詳しくないが、殺人が起き、刑の重さを決めるとき

犯人の動機や計画性に重点がおかれる。

 

なぜならば、そこに犯人の道徳基準が内包されているからである。

 

道徳基準はその人の根っこであり、今後大きく変わることはない。

 

根っこに毒性があるならば、また新たに毒のある果実が実る、

つまり「再犯性がある」と判断されることになる。

 

 

行動だけで人間性を判断することができないとなれば、

対比される「言葉」の方はどうなのか。

 

悪意と善意という基準でみれば、

「悪意のある言葉」「善意のある言葉」も同じように存在している。

 

人はイヤミを言うこともあれば、優しい言葉をかけることもあるのだ。

 

 

では、言葉も行動も結局本質は同じではないかと思ってしまうが

「意識と無意識」という観点で考えれば少し性質が違ってくる。

 

ごく普通の人が殺人を犯してしまうように、

行動には衝動性、つまり、意識下ではコントロールできない部分がある。

 

対して言葉は、行動よりも意識的なものではないだろうか。

より冷静なものであるともいえる。

 

 

そう考えれば、言葉の方がより冷静な状態で発せられる点で

その人の人間性をよくあらわすのではないだろうか。

 

冷静でない状態は、しばしば「自分を見失う」と表現されるように

衝動性の帯びやすい行動は、人間性を判断するには不向きではないだろうか。

 

 

もう自分でも、何を論じたいのかよくわからなくなってきたので

この辺りで締めようと思う。

 

論理がガタガタなので、読んでくれた人は

僕が何を言いたいのかよくわからなかったかもしれない。

 

ただ、少しでも何かを考えるきっかけぐらいになればと思う。

 

 

そもそもこの記事も、民法の勉強をしているときに

「善意」というキーワードが出てきて、

そこから考えが始まったものだった。

 

また何か思いついたら好きなように書きます。

 

集団を変えるには

 

最近、生活の中でテーマにしていることがある。

 

「自分から動くこと」だ。

 

 

先日UVERworldのライブに行ったときのこと。

 

一般販売の余りチケットだったので、

ステージからはかなり遠い席だった。

 

アリーナ席と比べると、やはり観客の熱量が低い。

 

 

僕だけかもしれないが、合いの手を入れるにも

周りが静かだから、つい恥ずかしくなって

自分も大人しくなってしまう。

 

でもそれじゃあ楽しくない。

 

そんな時に思ったのが、

「じゃあ自分が1人で盛り上がれば、

 隣の人もつられて盛り上がってきて

 それがどんどん広がっていくんじゃないか」

ということ。

 

 

盛り上がってるアリーナ席の方だって、

誰かが最初に口火を切って盛り上げ始めたはずだ。

 

今までは無意識のうちに

「最初の誰か」が現れるのを待っていたが、

それでは何も変えられないんだと気づいた。

 

 

大学に通っていても、

「最初の誰か」が現れる場面がたくさんあることに気づく。

 

通学バスの中で、「次とまります」ボタンを押す人。

 

グループ学習で、「あなたはどう思う?」と投げかける人。

 

講義の終わりの質問タイムで誰も挙げない中、手を挙げる人。

 

 

一方で、待っているだけの人たちは

「誰か止まるボタン押せよ」

「誰か話し始めろよ」

「誰か手あげろよ」

と思いながらも、自分は何もしない。

 

 

本当に根っからの人任せで、

強制されないとやらない人は仕方ないのかもしれない。

 

でも、心のどこかで「自分がやるべき」だと思っているのに

勇気が出なくてやれない人がいるのはもったいない。

 

 

なら、まずは僕が勇気を出して「最初の誰か」になれば

その姿を見て、「自分もやってみよう」と思う人がきっといるんじゃないか。

 

そうやって、1人の行動の影響が波紋のように広がって

集団が変わっていくのだと思う。