内省の日々

24歳。生きづらさを抱えてもがく。

死ぬ瞬間のことを考えてみた

明日、東京に最終面接を受けに行く。

 

6月末から自己紹介用のプレゼン資料を準備していて、完璧主義的な僕は

「どのレベルまで作り込めばいいんだ。もう逃げたい」と苦悶しながらもなんとか完成させることができた。

 

「自分とはどんな人間か」を伝えようと思った時に考えたことは
人生で何を大切にしたいのか、誰のため何のために生きるのかということだ。

 

このブログでも何度か書いたと思うが、やはりたどり着いた答えは

誰かを愛したい、幸せにしたいということだった。

 

人生には「死」という終わりが必ずあって、その瞬間に何を思いたいか。

そう考えた時に、僕は人生で最も愛した人の顔を思い浮かべながら逝きたいと思った。

 

でもまだ家族以外で「真に愛した」と言える人が僕にはいない。真実の愛を見つける日がいつになるかは分からないし、一生をかけても手に入らないかもしれない。それはとても奇跡に近いことだろうから。

 

それならば、明日死んでしまうかもしれないこの命を、少しでも誰かを幸せにするために使いたいと思う。まさに天に召されようとする時に、走馬灯のように自分と関わってくれた人の笑顔が浮かんだらいいな。

 

少し前までは「どうせ死んで何もかも消えてしまうのだから、何をしたって意味がない」と考えていたのに、こう思えるようになったのはどうしてだろう。

 

意味がないとは言え、どうしても死ぬことは怖いと思ってしまう。それは前も今も同じだ。ただ、「死」が単なる終わりではなく、生涯の完成であり、次の世代へのバトンパスになるのだと考えればそれほど怖くないのかもしれないなと思った。

 

逆に最も恐ろしいのは、誰かをひどく傷つけ悲しませてしまったという罪の意識に苛まれながら逝くことだ。自分は生きているだけで誰かに迷惑をかけてしまう、自分が死ぬことが最後に残された贖罪だと思いながら死ぬのも、ある意味では納得感があるのかもしれないけど、なんだかその終わり方は悲しい。

 

あの世があるのかは分からない。あると信じたいのは、魂という名の自意識が存続することへの憧れからくるものだろう。果たしてその永遠に意味はあるのだろうか。

 

なんだかかっこつけた感じになってしまったが、深く考えすぎずに、愛と感謝と貢献を大切にしながら生きていきたい。例のごとくめっちゃ沈むこともあるけど、何日か経てば自然と自分の中に希望が芽生えてくることももう分かったから、とにかく生き抜くことを心に誓う。