就活をしているとモテる女性の心理が分かってきた

前回のどんよりした記事を書いてから1週間がたった。

 

この1週間は東京のシェアハウスに泊まり、就活をしていた。

良い出会いがいくつかあって、前向きな気持ちに変わってきた。

 

1つはシェアハウスに置いてあった『内定力』という本。

コテコテのタイトルだなと思って読む気が失せかけたが、読んでみると今の自分に必要な内容が書かれていた。

 

例えば「就活は人事を信用させるゲーム」ということや、人間を8つのタイプに分けてそれぞれの特徴を知ることで、自分の個性が分かったりとか。

 

何より良かったのは、面接で「もっと個性を出していけ」というアドバイス。「ワタクシは〜」「御社の強みは〜」みたいなテンプレを人事は聞き飽きてるから、とにかく自分の言葉で話すべきとのことだった。

実際に試してみると明らかに食いつきが良く、自分も面接を楽しめるようになった。

 

2つ目は就活イベントで何社かに気に入られ「モテ女」のような気分を味わうことができたこと。

モテる女の子は普段から多くの異性に言い寄られていて、選び放題の状態。そんな子と付き合おうと思ったら、何か運命的なものを感じさせたり、濃い関係を築いていなければ厳しい。

 

これを就活に置き換えると、倍率が数十倍になるような会社はともかくとして、中小企業がモテる学生を自社に引っ張ってくるのは相当難しいことが分かる。

学生に自己分析が必要なように、選ぶ側の会社も他社との違いや個性を明確にしなければ「この会社こそが運命の相手だ」と思ってもらえない。

 

そして僕自身はと言えば、就活生の中ではけっこうモテる方なのかもと思い始めた。大学生活では女の子にモテなかったが、幸い企業にモテるような考え方やスキルを身につけることはできたらしい。

 

それで今の僕には複数の選択肢が与えられているわけだが、ある程度の裁量を与えてもらえる会社であればどこでもいいのかもしれない。自由に動ければ、自分の工夫次第でどんな仕事でも面白くできるはずだから。

 

ついでに会社選びの基準を整理しておく。

 

<プラス>

・若手に裁量が与えられ自由に動ける

・無限にアイデアを試すことができる

・変化が激しい

・主体的で個性的な社員が多い

・過去に何人か起業している

・人のためになっている実感が得られる

・合理的で意味のあるビジネス

 

<マイナス>

・倫理に反していると感じるビジネス

・手順が決められ、個性を生かす余地がない

・外向的な人が多く、明るく振る舞わないといけない

・高圧的、独善的な上司・経営陣

・不合理で存在意義の感じられないビジネス

 

特に重視したいのが「自由」と「多様性」で、これさえあればどこでも良い。

 

自由と言えば、リクルート最年少役員の出木場さんの存在には勇気をもらえた。

newspicks.com

「自由を制限させられることに2秒も堪えられない」そんな人が、リクルートという大会社の役員に登り詰めている。

自分がこの人ほどの商才を秘めているかはともかく、「やりたいことだけやる」マインドでも企業の中で高く評価されることがあるんだと勇気をもらえた。

 

しかも今の時代は転職もしやすいし、副業もできるし、起業だってやろうと思えばできる。選択肢が無数にありすぎて疲れるとは思うけど、自由な社会へとシフトしていっていることは間違いない。

こんな時代に義務教育で強制的に同じ箱に入れられるなんておカド違いだし、そんな狭い世界でいじめられて絶望して自殺を選んでしまうなんて悲しすぎる。

 

収まりどころが分からなくなってきたが、とにかくこの1週間東京に出てきて良かった。うるさいシェアハウスと都会の喧騒に消耗して、何度大阪に逃げ帰りそうになったか分からない。たまには無理してみるのも悪くないなと思った。

この苦しさは未熟さゆえの甘えなのだろうか

久々にブログを書くことにしたのは、何か吐き出さないとこの苦しさをどうにもできないと思ったから。

 

とにかく疲れている。腰と足に謎の湿疹ができて一晩中かゆい。

皮膚科で診てもらったら原因不明と言われた。おそらくストレスのせいだろう。

 

疲れの一番大きな原因は就職活動だ。僕は人よりも自己肯定感が低いから、ジャッジされるということ自体にいちいち過剰反応してしまう。大して行きたくない企業でも、お祈りされると自分の価値を疑ってしまうようになる。

 

疲れを癒したい、自尊心を保ちたいという動機で異性のパートナーを作ろうとしたが、これも結局、自分の男としての価値を値踏みされているような感覚に陥り余計にストレスが溜まってしまった。

 

別にこの苦しさが誰かのせいだと言いたいわけではない。むしろ何でも自分のせいだと感じてしまうから、勝手に自信を失って精神的ダメージを受けている。一方で「人のせいにしてこなかった」自分を誇りに思っている面もあるから、相当こじらせている。

 

この文章を書いている時も、体裁とか読み心地とかを気にしていて、いったい自分はどこまで気にしいなんだと辟易としてくる。ただこうやって書いて吐き出すと幾分かスッキリしてきた。

 

あとは、働くことに対する不安が強まっている。気疲れしやすいから職場環境や人間関係がちょっとでも自分に合わないと辛くなるだろう。それに気分屋で体力もないから、計画を立ててコツコツと仕事に取り組むなんてこともできる気がしない。

 

そんな自分を信用できない。これなら本気でやれる!と熱くなっていた感情が、次の日には消え失せているという経験を数えきれないほどしてきたから、明日の自分が信じられなくなってしまっている。気分屋で飽き性の自分が継続的に情熱を注げることが見つかればいいのだが、なかなか難しい。

 

先月末に実質バイトをクビになってしまった。原因は遅刻と欠勤の多さ。朝起きて、オフィスに行く気分じゃないなと一度思ってしまったら、もうベッドから出られない。これは中学生ぐらいの頃から染み付いてしまった習慣だ。

 

これはただの甘えなんだろうか。間違いなく言えるのは、自分にはハングリー精神がない。劣等感はあるけど、飢えて死んでしまうかもしれないみたいな危機感が微塵もない。親は放任主義で、ある程度お金のある家庭だから、その状況に甘えてしまっているのだろう。

 

バイトをクビになる時に社長に言われたのが「君を厳しく叱ってくれる人はいるのか」ということだった。一時的にはそんな存在はいたが、厳しく叱られても数ヶ月も経てばすっかり忘れてしまう。

 

いつも通り脈絡のない文章だけど、自分の問題意識はある程度書き残せたと思う。

後日これを読み返して何か気づきや解決策は生まれるだろうか。

 

何も前に進まないとしても、書くことを改めて習慣にしていきたい。疲れ果ててしまったのはブログや日記を書いたり、寝る前に瞑想をすることをしていなかったからかもしれない。

そんなわけでこの辺で終わります。

変えられるものを変えていく勇気

神よ、与えたまえ。

変えられないものを受け入れる平静な心を、

変えられるものを変えていく勇気を、

そして、その両者を見分ける知恵を。

これは「ニーバーの祈り」と呼ばれる有名な一節である。先月購入した『問題解決大全』で紹介されていた。今日もまた風呂場で、この一節に関するひらめきがあったので書き残しておく。

 

この一節を一言で表すなら、「自分が変えれることだけ考えよう」ということだと思う。昔から何事も真剣に捉えてしまう僕には、この考え方が生きていく上で重要ではないかと気づいた。

 

例えば僕は「この世界で生きているのは自分だけかもしれない」とか「実は自分はずっと夢の中にいるのかもしれない」という空想をよくするのだが、本当はそうだったしてもそれを確かめる術はない。

 

しかも、こういう思考はたいてい生産性のない方向に向かう。「生きてる意味なんてない」とか「どうせ夢なら何やらかしてもいいやん」とか「どこまでいっても自分は孤独で寂しい」などという破滅的な考えを生む。

 

こんな考えたってどうしようもないことにモヤモヤしている暇があるなら、今生きているこの瞬間をもっと味わったり、「自分の周りの大切な人たちに何を与えられるだろうか」ということを考えた方がいい。

 

『問題解決大全』では「ニーバーの仕分け」というメソッドを提唱しており、まず問題や課題を細分化し、それぞれに「可変度」という数値を割り当てていく。(可変度とは、文字のごとく「その対象の変えやすさ」を意味する)

 

「可変度の高いものから順にアプローチしていけば問題解決の可能性が高まる」というわけだ。例えば「過去の出来事」の可変度はゼロに近いが、「過去への解釈」は可変度が比較的高い。

「なんであんなことをしてしまったんだろう…」と黒歴史を悔やむ人よりも、「あの苦い経験があったからこそ今の自分がある」「次は同じ失敗をしないようにしよう」という前向きな解釈をする人の方がよっぽど生きやすいだろう。

 

これは思考だけではなく、あらゆることに当てはまる。

 

例えば恋愛なら「身長が低いからダメだ」じゃなくて、「低いから可愛がってもらえる」だとか、髪型や服装を変えるとか、話術を磨くとか、はたまた収入を増やすとか「可変度の高い道」はいくらでもある。

 

僕が小学生からやっている麻雀も同じで、「運」や「流れ」などコントロールできないものを無視して、「見えている牌から確率を考える」ことが勝ちに繋がる。

 

今後、何かくよくよ悩み出してしまったら、「悩んだところでどうにかできるか?」「それは変えられるのか?」と自分に問いかけて地に足の着いた思考をするようにしたい。

  もし誰かに悩みごとを相談されたときは、まずは気持ちを受け入れた後に「変えられるところから少しずつ手をつけていこうよ」と言おうと思う。

 

とはいえ「変えられないもの」に執着してしまうのが人間らしさなのも事実だ。

母は今、祖母が亡くなった喪失感からなかなか抜け出せないでいるが、そんな母に「いくら悲しんでもおばあちゃんは帰ってこないよ」と言うのは心苦しい。

 

大切な人を喪う悲しみを癒すには、きっと長い時間が必要なのだと思う。「この苦しみもいつか時が解決してくれる」それを信じて、辛いことがあったとしても、命を投げ出すことだけはしないでおきたい。

 

そして自分の大切な人が苦しみや悲しみを抱えているのなら、何もできないかもしれないけど、せめてその人の味方でいたい。こんな綺麗事はブログにしか書けないけど、「自分に言い聞かせる」という意味で書き残しておく。