内省の日々

23歳。人生について考え続ける。

変えられるものを変えていく勇気

神よ、与えたまえ。

変えられないものを受け入れる平静な心を、

変えられるものを変えていく勇気を、

そして、その両者を見分ける知恵を。

これは「ニーバーの祈り」と呼ばれる有名な一節である。先月購入した『問題解決大全』で紹介されていた。今日もまた風呂場で、この一節に関するひらめきがあったので書き残しておく。

 

この一節を一言で表すなら、「自分が変えれることだけ考えよう」ということだと思う。昔から何事も真剣に捉えてしまう僕には、この考え方が生きていく上で重要ではないかと気づいた。

 

例えば僕は「この世界で生きているのは自分だけかもしれない」とか「実は自分はずっと夢の中にいるのかもしれない」という空想をよくするのだが、本当はそうだったしてもそれを確かめる術はない。

 

しかも、こういう思考はたいてい生産性のない方向に向かう。「生きてる意味なんてない」とか「どうせ夢なら何やらかしてもいいやん」とか「どこまでいっても自分は孤独で寂しい」などという破滅的な考えを生む。

 

こんな考えたってどうしようもないことにモヤモヤしている暇があるなら、今生きているこの瞬間をもっと味わったり、「自分の周りの大切な人たちに何を与えられるだろうか」ということを考えた方がいい。

 

『問題解決大全』では「ニーバーの仕分け」というメソッドを提唱しており、まず問題や課題を細分化し、それぞれに「可変度」という数値を割り当てていく。(可変度とは、文字のごとく「その対象の変えやすさ」を意味する)

 

「可変度の高いものから順にアプローチしていけば問題解決の可能性が高まる」というわけだ。例えば「過去の出来事」の可変度はゼロに近いが、「過去への解釈」は可変度が比較的高い。

「なんであんなことをしてしまったんだろう…」と黒歴史を悔やむ人よりも、「あの苦い経験があったからこそ今の自分がある」「次は同じ失敗をしないようにしよう」という前向きな解釈をする人の方がよっぽど生きやすいだろう。

 

これは思考だけではなく、あらゆることに当てはまる。

 

例えば恋愛なら「身長が低いからダメだ」じゃなくて、「低いから可愛がってもらえる」だとか、髪型や服装を変えるとか、話術を磨くとか、はたまた収入を増やすとか「可変度の高い道」はいくらでもある。

 

僕が小学生からやっている麻雀も同じで、「運」や「流れ」などコントロールできないものを無視して、「見えている牌から確率を考える」ことが勝ちに繋がる。

 

今後、何かくよくよ悩み出してしまったら、「悩んだところでどうにかできるか?」「それは変えられるのか?」と自分に問いかけて地に足の着いた思考をするようにしたい。

  もし誰かに悩みごとを相談されたときは、まずは気持ちを受け入れた後に「変えられるところから少しずつ手をつけていこうよ」と言おうと思う。

 

とはいえ「変えられないもの」に執着してしまうのが人間らしさなのも事実だ。

母は今、祖母が亡くなった喪失感からなかなか抜け出せないでいるが、そんな母に「いくら悲しんでもおばあちゃんは帰ってこないよ」と言うのは心苦しい。

 

大切な人を喪う悲しみを癒すには、きっと長い時間が必要なのだと思う。「この苦しみもいつか時が解決してくれる」それを信じて、辛いことがあったとしても、命を投げ出すことだけはしないでおきたい。

 

そして自分の大切な人が苦しみや悲しみを抱えているのなら、何もできないかもしれないけど、せめてその人の味方でいたい。こんな綺麗事はブログにしか書けないけど、「自分に言い聞かせる」という意味で書き残しておく。

 

我慢は美徳じゃない

今日も8時間労働をしてきた。正確には寝坊して7時間半だったけど。

 

10時ー19時という時間帯でいつも働いているのだが、17時を過ぎると急激に集中力が無くなってくる。

仕事内容は「記事の編集作業」で、けっこう頭を使うしずっと画面に向かっているので精神的な負荷が大きい。メンタルはやられないけど、意志力の消耗が激しい仕事だ。

 

ほんとに日本人はこれを毎週5日連続でやっているのかと思うと、とても信じられない。試しに「8時間労働 無理」でググってみると、こんな記事が出てきた。

quit-job-tomorrow.com

 

この方が言うところによると、「8時間」に特に合理的な根拠はないらしい。19世紀末の労働者が「8時間にしろ!」と政府にクレームを入れたからそうなっただけ。

確かに人間の集中力が8時間も持つはずがないことは、僕みたいな若造でも分かる。

 

さらに生産性トップのアイルランド人たちは1日に「6時間半」しか働いてないらしい。僕の集中力が切れるのも6時間後ぐらいなので、自分がヤワ過ぎるわけではないことが分かった。

 

8時間を基準にして「労働基準法」が定められているのだとすれば、法律や政治というものも案外いい加減なものなのかもしれない。国のルール的な方面に疎い僕は、政治や法律はすごく合理的なものだと思い込んでいた。

 

よくよく考えれば未だ非合理なルールが残っているのは当たり前のことだ。なぜなら科学的常識が塗り替えられて現状のルールが「非合理なもの」と判明したとしても、ルールを変えるためには多くの手続きが必要になるから。

 

だから「8時間も働いたら集中力もたないんじゃね?」と国のお偉いさんが気づいて、よっこらしょと重い腰をあげるのを待っていても仕方がない。「どうすれば6時間労働でも食っていけるのか」それを法律に触れない範囲で探っていく必要がある。

 

さっき紹介した記事の人もそうだけど、8時間未満の労働で食っていける手段として「インターネット」は大いに活用すべきだと思う。僕も3年ぐらいネットビジネスに関わっていたことがあり、ただの学生が月に数十万、数百万を稼ぐという例も少数だが実際にあった。

 

僕が今ネットで食うために動き出していることは2つあって、1つが「ワードプレスアフィリエイトブログ」を立ち上げることだ。

アフィリエイトで月5千円以上稼げる人は5%ぐらいしかいない」というデータがあるように簡単なことではないが、社会不適合者の自分は5%以内に入れるはず(?)という謎の自信がある。

 

もう1つが「ウェブ解析士」の資格を取得することだ。たまたまコンビニで立ち読みした雑誌でこの資格を見つけ、「これだ!」と思った。おそらくこの資格を取ることでたくさんのメリットが得られる。

アフィリエイトには確実に役立つし、Webコンサルができるようになったり、セミナーができるようになったり、ネットで生計を立てる人たちとの繋がりが作れたりする。

 

専門的なウェブ解析の力を身につけたら、それを生かしてアーティストプロデュースなんかもやってみたい。『感覚ピエロ』のように現代はネットの力を生かし、セルフプロデュースで活躍するアーティストが現れ始めている。

もし「この人に売れてほしい。応援したい」と思ったアーティストと二人三脚で高みを目指すなんてことができたら、すごくワクワクするしやりがいがあると思う。

 

こんな感じで、最近は自分の進むべき道がどんどん明確になってきている。1年前は目の前が真っ暗になったようにどん底だったけど、人生は落ちるときもあれば上がるときもあるらしい。

父が「人生は山あり谷ありやで」と言っていたのが今になって思い出される。

 

これから辛いことも苦しいこともたくさんあるだろうけど、今はただ前に進み続けたい。

このブログを10年、20年後に読み返した時に何を思うか

今日は友人とロフトで手帳をみていた。「仕事の気づきをメモに残したいから手帳探しに付き合ってほしい」とのことだった。

 

手帳を探しながら、「そういえば僕もこうして自分の気づきをブログに書いたり、1年半前から日記をつけたりしてるなー」と思っていた。

 

友人と別れた後、ふとこんな考えが浮かんだ。

「もし20年後にこのブログを読んだら、自分は何を思うのだろうか」

 

「青いな」と思うのかもしれないし、「意外と良いこと書いてるやん」と思うかもしれない。いずれにせよ、自分がおっちゃんになり下の世代を育てる立場になった時に、若者の感性や考えを理解する助けになるだろう。

 

それに、20年後の自分が読んでも「たしかにそうだ」と思えることは、きっと自分にとって普遍的に重要なことなのだと判断できる。

1年半前の日記やブログ記事を読み返す今でさえ自己発見に役立っているのだから、10年、20年と蓄積されればもっと価値のあるものになりそうだ。

 

どこかの名言集に「人生とは自己発見の旅である」と書いてあって、たしかにそうだなと共感した覚えがある。先日の記事にも書いた通り、「自分が何者であるか」を知ることは充実した人生を送るための鍵だと思うからだ。

 

だから、これからはもっとブログを書こうと思う。せっかく日々何事かを考えているのに、時が経つにつれて気づきやアイデアが消えていくのはもったいない。それに書く中でより考えが明確になることもよくある。

 

1年前ぐらいにも「もっと書きたい」みたいなことを書いてた気がするけど、今度こそ続けたい。最近は「モノ書きで食っていきたい」という気持ちがより強くなっているから続けられそうな気がする。

 

僕には死ぬまでに「自分が書いたものを出版化もしくは映像化したい」という夢がある。

自分という人間が描く世界観は、人々にどう受け取られ、どんな考えや感情を生み出すのかを知りたい。批判されて傷つくこともあると思うけど、きっと自分の世界観に共感してくれる人がいるはず。

 

僕の拙い記事にスターをつけてくださる方もそうだけど、自分の作品に共感してくれる人がいるという事実は「自分だけじゃないんだ」という安心を得られるし、生きる支えになる。

それに「あなたの作品が私の生きる支えになっています」と言ってくれる人がもしできたとしたら、それ以上の喜びはないだろう。

 

今は幸いにもWEBメディアの編集という形でインターンをさせてもらっているので、自分の書く力を高めて、ゆくゆくは素晴らしい作品を生み出せるライターになりたい。

 

話が脱線してしまったが、とにかく書き続け、考えを見える形で残すこと。これを今まで以上に徹底していこうと思う。

人生とはジグソーパズルのようなものかもしれない

 

疲れた頭でシャワーを浴びながらごちゃごちゃ考えてたら

ふとタイトルのような考えが浮かんだので書き残しておく。

 

僕は多くの場面で「対等であること」を重視していて、「価値とは何か」とか「ギブアンドテイクは人間関係の原則なのだろうか」ということをよく考える。

ビジネスは基本的に「価値の交換」だから、フェアだし僕の価値観に合致していて好きだ。

 

それがどう転がって「人生はジグソーパズルだ」なんて結論になったかというと

自分でもまだ整理できてないので、書きながら考えていきたい。

 

まず「ギブアンドテイク」を考えたときに、シンプルな例は「ノート見せてやるから飯おごって」的な関係だ。これはわかりやすい。ノートから得られる「知識」と「食事代」を交換している。

 

では、「親が一人暮らしの息子に家賃を払う」とかはどうだろうか。一見、親は何の対価も得られていないように感じる。しかし実は「感情的な価値」を得ている。大富豪が巨額の寄付をするのと同じく、「与える」ことは自分の豊かさを実感する行為であり、「自分には生きる価値がある」という強い実感が得られる。

 

僕も「意味のある人生だった」と感じながら死にたいと考えていて、そのために少しでも多くの人に価値を与えて、それを自分の生きた証にしたい。こんな考えに至ってから、少しは「親心」というものを理解できるようになったのかもしれない。

 

このように基本的に世の中は「価値の交換」で成り立っていると考えられる。

ただ、全てが同じような交換ではなく「質の違い」があるのではないかと思う。

 

例えば「奴隷制度」なんかは、非常に質の低い交換だ。奴隷側は贖罪や生きる糧を見返りに、人身を主人に与え、主人は自由な労働力を得る。確かに交換は成り立っているが、奴隷側に著しく不利な交換ではないだろうか。

 

こんな難しい例を挙げなくとも、昔やっていたカードゲームで「鮫トレ」というのがあった。大の大人がカードの価値を分かっていない子供に不当なレートの交換を持ちかけるというものだ。子供はその時は納得していても、後々誰かに損したことを知らされショックを受けることになる。

 

以上のような「不当な関係」が質の低い交換の1つだ。

 

そしてもう1つが人間関係、仕事、職場などにおいて「合う合わない」というもの。

どちらかというとこれについて書きたかった。

 

人間は誰しもジグソーパズルのように、形の違うピースであり、それを合わない穴に無理やりねじ込めば、ギチギチに固まって抜けなくなる。はめ込まされている方は、とても窮屈で「居心地」が悪い。

 

DVを受けてる人やブラック企業で働かせられている人は、本当は素晴らしい形のピースなのに、合わないところに入れられて疲弊している。

一見「価値の交換」が成り立っているようで、その本質は歪だ。

 

だからこそ、僕は「合わないな」「居心地が悪いな」と感じたら、すぐさまその人やその場から離れるようにしたい。

合わない相手が必ずしも悪いわけではなく、たまたま「自分が」そこに合わないピースだっただけだ。探せばきっとどこかに自分がピタッとハマる場所があるはず。

 

1つ目に挙げた「不当な交換」は、パズルに例えると「穴に合うようにそれ以外の部分を粉々に削られてはめ込まされちゃう」みたいな感じだろうか。ちょっと無理やり感があるが致し方ない。

 

つまり僕が言いたいのは、生きる上で重要なのは、「まず自分がどんなピースであるのかを知り、それに合う穴を必死こいて探し続ける」ということだ。「自分を知ること」というのは、たぶんすごく難しいし、合う穴を探すのもきっと簡単じゃない。

 

だとしても、今感じている「違和感」や「居心地の悪さ」に妥協せず、もっと自分にとって良い道を僕は探し続けたい。

 

なんだか良いことを言えた気がするので、もう寝ることにする。明日は週5勤務の終着点。なんとか乗り切ろう。

週5で働ける気がしない

今年に入ってから頻繁に体調を崩すようになった。

 

1月は謎の腹痛をきたして腸カメラの検査をした。

結果的に何も異常はなかったが、おそらくストレスが原因で便秘になってしまったからだと思われる。

 

そして2月に入った今、熱を出してバイトを休むことになった。

 

 

なぜこんなにも体調を崩しているのかを考えてみると

9月までのニート状態から、いきなり週3フルタイムのバイト(営業系)を始めたのが原因ではないかと思う。

 

しかも先月末からはもう1つ新たにバイトを始めて週5フルタイムになった。

これだと普通に就職して働いてるのと変わらない感じだ。

 

僕の大学の同期は去年の4月から新卒で働き始めているので、僕が週5で働くのは世間一般からみれば何もおかしなことではない。

 

しかし、たった数ヶ月(しかも週3)でこれだけ心身に異常をきたした僕が「ふつうの人」と同じように週5フルタイムで働けるとは思えない。

 

1年もしないうちに鬱とか胃潰瘍とかになって退職することになりそうだ。

 

まあ半年間のニート状態からの反動もあるだろうけど、それにしても週5は辛い。

 

僕は必要以上に人に気を遣ってしまうタチなので、8時間も人と一緒にいるとかなり消耗してしまう。

 

 

先月末にバイトの一人が辞めることになって、数人で送別会をした時もしんどかった。

 

女3男2で飲んでいて、女性陣が「男の外見」について話題にし始めた。

 

男性陣にある程度気を遣って、褒め言葉を言ってくれたりもするのだが

「身長」の話になったときには閉口してしまった。

 

何度か記事に書いたこともあるが、僕は身長が低い。165センチ前後ぐらいだ。

 

「恋人は178センチはあってほしい」

「165以下の人ってちょっと可哀想」

みたいな話が出てきて、「気にしまい」とは思えど心のザワザワを抑えることができなかった。

 

勉強とか仕事は努力すればなんとかなる可能性があるけど、身長は努力したところでどうにかなるものではない。

どうにもならないことで「あーだこーだ」言われるのは、悔しいやら悲しいやらでやりきれなくなる。

 

こんなことは気にしなければいいだけの話だし、「これも個性だ」と受け入れてむしろメリットに変えてしまうぐらいにすればいいのはわかっているが

疲れているときはそんな余裕をもてない。

 

 

さっきの飲み会に限ったことではないが、人とコミュニケーションしていると

どうでもいいことがつい気になってしまって疲弊する。

 

敏感すぎるだけじゃなくて、プライドが高く完璧主義の傾向もあるからこんなに細々と考えてしまうのだろう。

 

今日は「頼んでもいないのに話しかけてくる電気屋の店員」や、「薬局で若い女性にハイテンションで絡むおじさん」にダメージをくらった。

 

不自然なこと、フェアじゃないことがなんだか許せない。

 

ストレングスファインダーで1位の資質が「調和性」というのは、こういう考えを指しているのかもしれない。

そして2位が「内省」だから、不自然なシーンに出くわすと、とめどなく思考があふれてきて疲れてくる。これが僕のいつものパターンだ。

 

 

結局なにが言いたいのかわからなくなってきたけども、どうにかして「週3・1日5時間」とか「ずっと家で仕事できる」とかの働き方を模索したほうが良さそうだ。

 

もしかしたら「週5フルタイム」も慣れでなんとかなるのかもしれないけど、ゲームオーバーの可能性がけっこう高い気がするんだよな。

 

それか筋トレとかマインドフルネスとかで疲れにくい心身を手に入れればなんとかなるのか。

 

ただ、とにかく今はとても疲れているから、「休む」ことが最善策に思える。

 

こうやってブログを書いたのも、モヤモヤを吐き出して少しでも心を癒したいと思ったからだ。

 

 

生きるのって難しいな。

でも、死にたいとかはいっさい思わない。むしろ生きることに執着しているぐらいだ。

 

先月おばあちゃんが亡くなって葬儀に出ているときにも色々なことを考えていた。

 

死んでしまったら身体も思考も精神も意識も全てがなくなるのだから、何十年生きたところで「死ぬ間際の後悔の度合い」が変わるだけで、いつ死んでも同じなように思える。

 

でも、生きている今、死ぬのは怖い。

命と比べれば、金もプライドもコンプレックスも何もかもちっぽけなものだ。

 

しかしだからと言って、命以外なにも満足に持っているものがなくて「ただ生きているだけ」という状態には耐えられないだろう。

 

ゆえに、僕はどう生きるべきなのか。よくわからない。

 

 

ところで『君たちはどう生きるか』という本が巷で流行しているそうだが、案外多くの日本人が僕と同じようなことを考えているのかもしれない。

 

モノも情報もサービスも溢れんばかりにある今、何がなんだか分からなくなってしまってる人が大半なのではないだろうか。

 

例えばインターネットは人に多くのメリットをもたらしたのかもしれないけど、同時に大きな負の側面も抱えている。

 

何か不祥事を起こせばネットで拡散され袋叩きにあい、しかもその黒歴史が一生残ることになる。

 

他にも、これまではマニアックな人が専門書で確かめていたような統計データを大半の人が知るようになっている。

例えばさっきの身長の話にしても、「平均身長が171cmであること」を多くの人が知っているから、「165センチは小さい」という認識が人々の間に生まれる。

これについては大きなメリットもあるけどね。

 

 

久々にブログを書いたから、話があっちこっちに飛んでしまって意味のわからないものになってしまった。

まあ自己満足が目的のブログだからそれでもいいか。

 

ここらへんで終わります。

「優しさ」と自己保身

 

前回書いた記事から2週間がたった。

 

あれから結局インターンを休み、3日間休養をとった。

そうしたら徐々に前向きな考えに変わり、めでたく1つ契約を取れた。

 

やはり結果を出す上でも、休むことは大事だ。

 

 

今日は休日だがオフィスに出勤して社長と話していた。

 

社長は歯に衣着せぬ物言いをよくするが、

それは嫌われ役を買ってでも相手に必要なことを伝えようとしているのだと

最近になって気づいた。

 

 

僕は今まで「人を叱る」ことに対して嫌悪感を抱いていた。

 

「自分の人生もままならないのに、どうして人様にそんなに偉そうに言えるのか」

「人にはそれぞれ事情があるんだから、頭ごなしに叱るんじゃなくて

 相手を尊重すべきではないのか」

 

という違和感が僕の中にあって、

他人にズケズケと言う人を生理的に受けつけなかった。

 

 

でも相手が倫理的におかしい言動をしていたり

自分自身のことを蔑ろにしていたりしているのに何も言わないのは、

相手を尊重するというよりも

「嫌われたくない」という自己保身の気持ちなのかもしれない。

 

これまでの僕は「それおかしくないか?」と内心思っても

波風を立てるのが嫌で「すごいね」とか「え〜」などといって

その場をやり過ごしていた。

 

「相手を尊重する」というキレイゴトで

自己保身する自分をごまかしていたのだ。

 

 

とはいえ、なんでもかんでも強く言えばいいってもんじゃない。

 

相手の言動に「ん?」と思ったら

「へ〜そうなんだ」で終わらずに詳しく聞いてみる。

 

それで本当におかしな考え方をしているのなら

嫌われるのを覚悟でビシッと言う。

 

そうじゃないなら「いつでも力になるよ」と相手に寄り添う。

 

 

そんな風に、自己保身の気持ちからじゃなくて

真に相手のためを思って行動できる人間になりたい。

 

「成長」は都合の良い言葉だ

 

インターンでよく社長に言われる「成長」というワード。

 

教育系の会社だからその言葉が使われるのは当然なんだけど。

 

なんだか違和感を感じる。

 

「頑張れば成長できるぞ」は雇用者からすると

従業員に無理させるのに体の良い言葉だ。

 

 

僕も今までは自己啓発やら筋トレやら瞑想やら

自分を「成長」させるために様々なことにトライしてきた。

 

しかし「もっと成長しないといけない」という考え方は

今の自分を「否定すること」に繋がっている。

 

「ダメだ。ダメだ」と自分に声をかけ続けた結果、

「もうどうでもいいや」と全てを投げ出したくなってきた。

 

なんだか社会全体が「成長」に囚われた狂信的な宗教団体に見えてきた。

僕の周りにそういう人が集まってるだけかもしれないけど。

 

 

本当はもっと、肩肘はらずにアホ丸出しで生きたい。

 

僕は「正しさ」よりも「楽しさ」「心地よさ」を重視したい。

 

お互いに「アホでもドジでもええやん。楽しくやろうよ」

という空気感で仕事できたらいいな。

 

まあ僕は社会を知らない若造だから、こんなのは甘い考えかもしれんけど。

 

 

こんなこと書いてると、明日ほんとに出勤したくなくなってきた(笑)

 

このままだとニートまっしぐらかも。