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内省の日々

とある学生の頭の中

「自分は"良い"人間だ」という意識

 

今日、彼女の身内に不幸があった。

 

親戚の容体が急変して、病院にいるというときに

彼女から電話をもらった。

 

そういうとき、なんて声をかけたらいいのか

全然わからなかった。

 

ただ、「うん、うん」と頷くぐらいしかできなった。

 

 

こういう誰かを思いやるような場面で、

自分は根っからの「良い人間」ではないのだなと気づく。

 

「良い人間」とは何かと言われたら

明確に定義できないけど

根本に利他心があるような人が

当てはまると思う。

 

 

僕は自意識過剰すぎるせいなのか

根っからの利己的人間なのか

よくわからないけども

「心から相手を思いやる」ことなんて

できる気がしない。

 

頭の中で「良い人間」が考えるようなことを

考えたりするのだが

それは純粋な気持ちから出てきてるものではなくて

 

「こう考えるのが正しい」

という社会的な規範に沿おうとしているにすぎない。

(という自覚がある)

 

 

誰かを思いやるような場面でなくても

自分の内面と向き合ったときに

「クソな自分」がいて呆れることがよくある。

 

そういう自覚があるから

なんらかの「善行」をしたときに

クソな内面との矛盾に吐き気を催したりする。

 

 

誰の心の中にも「驚くほど利己的でクソな自分」は

存在していると思う。

 

ただ、それを自覚できていない人は

きっと楽に生きられるのだろうな。

 

 

マザー・テレサが実は悪女だった』

という記事を読んだときにも思ったが

 

「偉人」も所詮は人なのだから

根っからの「聖人」なんてことはありえないと思う。

(ほんとに悪女かどうかはおいといて)

 

 

昨日も自分の好きなアーティストが

かなり派手な女遊びをしているという噂を聞いて

若干ゲンナリすると同時に「やっぱそうだよな」と思った。

 

人間には良い面もあれば悪い面もある。

 

何事もそうやってうまくバランスを取らないと

無理が生じて破綻するのがオチだ。

 

 

人も物事も「こうだ」と簡単に決めつけずに、

多面的に考えるようにしたい。

小さなステップから始める

 

今日「小さな習慣」という本を読んだ。

 

内容はシンプルで、

「ものすごく簡単な(小さな)目標を立てて

それを継続すれば良い習慣を身につけることができる」

というもの。

 

著者は「腕立て伏せを1回」やってみたことが

30分の運動→ジム通いへと発展し

今ではかなりマッチョになったそうだ。

 

また、「1日50ワードだけ書く」(英語)という小さな習慣が

複数の本の出版につながったらしい。

 

 

この手の「習慣本」はノウハウがギッシリで

読むのすら億劫になってしまうのが常だが

この本はシンプルでいい。

 

「小さな目標」を今日からやってみようと思う。

 

しかも1つだけじゃなくて、

2、3個の目標を同時並行でやってもいいとのこと。

面白そうだ。

 

 

今思えば、半年前から

「日記を書くこと」と「筋トレ」と「ストレッチ」と「瞑想」

は習慣化することができている。

 

これらの習慣のおかげか、

思考力やコミュ力が以前よりも向上した実感がある。

 

より人生をコントロールできている感覚もある。

 

 

ここにさらに「授業の予習・復習」「早寝早起き」などを

習慣化できればもっと充実した毎日になりそうだ。

 

ブログももっと定期的に書くようにしたい。

 

 

とにかく今は単位を取らないと就職すらできないので

「授業の予習・復習」を習慣化しようと思う。

 

「バカらしいぐらい簡単な目標」となると

どんなだろうか。

 

・家に帰ったら教科書を机の上において、

 3分だけ読む

 

とかかな。

 

こういうのは、「やり始め」が最も億劫だから

そこさえ乗り越えられればたぶん自然ともっと読むことになる。

 

あまり厳しい目標を課すと

何もかも投げ出したくなってしまいそうだから

ほんとにアホみたいに簡単なことから始めていきたい。

 

5月病を撃退するには

 

5月に入ってからどうにも体がだるくて

勉強に身が入らない。

 

そういえば「5月病」という症状があることを思い出した。

 

新学期から妙に宿題が多くてなんとか踏ん張っていたが

ここにきてその反動がきたのだろうか。

 

 

アニメやドラマをみてお菓子を食べて・・・

という自堕落な生活から抜け出さなければと思い

今日は2週間ぶりにジムに行ってみた。

 

1時間半ほど運動したら、

なんだかパワーがみなぎってきた感じ。

 

身体にも精神にもプラスの効果がある筋トレは

まさに百薬の長といえる。

 

 

もし常に高いエネルギーを保ちながら生きることができるなら

たいていのことは成し遂げられると思う。

 

どれだけ才能があっても、修練を積まなければ一流にはなれない。

 

逆にいえば修練を積めば一流になれる可能性がある。

 

ただ、その「修練を積み続ける」のが難しいから

ほとんどの人は一流になれない。

 

「わかっちゃいるけど動けない」

状態は多くの人が経験しているのではないだろうか。

 

 

僕はもう体も心もだらけきった状態にはなりたくないから

今度こそ定期的に筋トレをしようと思う。

 

そりゃあ筋トレをしてる最中は辛いけど

やり遂げた後の爽快感がものすごいし

活力がみなぎってくるのだから

どう考えてもやった方がお得だ。

 

 

思考が変われば行動が変わる。・・・

の名言ではないが

 

身体が変われば行動が変わり、

行動が変われば習慣が変わり

習慣が変われば生活が変わる

 

という感じで、

乱れた生活も整ってくるのではないだろうか。

 

 

ジム通いは億劫だけど

これだけはなんとしても習慣化したい。

なぜオタクの話はつまらないのか

 

今日のお昼に受けた講義で気づいたこと。

 

交通経済についての講義なのだが

どうにも教授の話が頭に入ってこない。

 

それがなぜなのか5回目の講義でやっとわかった。

 

「無駄に細かすぎる」のだ。

 

 

教授は中学生の頃から鉄道好きで、

大学入学から今に至るまでずっと交通分野を専攻している。

 

要は「交通オタク」である。

 

おそらく交通に関してはものすごい知識量なのだろうが

それ故に1つのワードから別の概念にどんどん派生していき

「結局なにが言いたいんだっけ?」状態になってしまう。

 

 

僕もオタク気質なので自戒を込めて書いているが

しっかり伝えようと思って、かゆいところまで話すと

返って何も伝わらなくなってしまうのだ。

 

要点がわからず、聞き手は「で、なんなの?」という状態で

どんどん新情報を詰め込まれてしまうので

聞いていて疲れるし、何も頭に入らない。

 

 

「しっかり伝えよう」と思って細かくなるのはまだマシだけど

もっとタチが悪いのが、相手の興味なんておかまいなしに

思いついたことを次から次へと話す人だ。

 

オタクがモテない典型的なパターンがこれだろう。

 

 

僕もつい最近までは、女の子と話すときに

無駄に細かく話しすぎていた。

 

それで女の子は疲れてきて、あくびをしだす。

 

家庭教師で生徒に教えてるときもそうで、

正確に伝えようとかなり詳細に話してるのに

全くこちらの意図が伝わっていない。

 

 

うまくいくコミュニケーションは、

 

「相手の話をしっかり聞いて、共感して

一言二言コメントする」

 

こんな感じがベストなんじゃないだろうか。

 

 

今日も食堂でたまたま隣にいたおばあちゃんに話しかけて

ひたすら笑顔で「うんうん」と聞いていたら

向こうもこっちの話を聞いてくれるし

「イケメンだね」とか褒めてくれる。

 

とにかくシンプルかつ易しい言葉を使う。

 

これが分かってからは

人と話すのがかなり楽しくなった。

 

 

彼女ができてからというもの

何をするにも自然と自信がわいてくるし

どんどん外向的になっていくのがわかる。

 

なんだか人生が楽しくなってきた。

 

彼女ができた

 

2年ぶりに彼女ができた。

 

とても純粋で一緒にいて楽しい子だ。

 

 

やはり彼女がいると精神的に安定する気がする。

 

僕の中にあった欠乏感が埋まって

恋愛以外でも「これからもっと楽しいことがありそうだ」

とワクワクしている。

 

とはいえまだ付き合ってから1週間も経っていないのだから

これから徐々に関係を築いていかないといけない。

 

 

僕はまだ「深い愛情」というものを他者に抱いたことがない。

 

誰かを愛するようになれば

僕の人生はもっと深みを増すだろう。

 

「自分」という存在が自分だけのものではなくなって

相手にとってもかけがえのないものになる。

 

それはとても素晴らしいことだと思うし、

もっと色んなことを学んで

その子にプラスを与えられるような存在になりたい。

 

 

ただ、僕の中にあるのはキレイな感情ばかりではない。

 

こんなことは決して本人には言えないけど

彼女のことが「性的にどストライクか」というと

そうではないような気がする。

 

「超可愛い」ではなく「普通に可愛い」という感じ。

 

相性や中身を全く考慮しないならば

大学や街中にいる女の子の方が魅力的だと感じることがある。

 

 

ブログでは良い子ちゃんぶったことばかり書いてるけど

僕は昔から性欲が強くて

高校生のころは会話の8割がエロ話だったし

大学生になってからは風俗にハマってしまったときもあった。

 

風俗ですごくタイプの子が出てきたら

やっぱりものすごく興奮する。

 

ただし、そこには「愛」はない。

 

お金と身体の交換という「ビジネス」である。

 

 

こんなにセックスのことばかりを考えてしまう自分は

低俗であることに間違いはないと思うが

自分の思っていることは正直に書いておきたい。

 

 

「関係性」を無視するなら、

自分がより「可愛い」と思う異性を抱いた方が

気持ちいいセックスになるだろう。

 

風俗やワンナイトラブやセフレなどは

このような論理になる。

 

 

しかし

「付き合っている彼女とのセックス」

は毛色が違うはずだ。

 

お互いの愛情が親和することで

おそらく僕が想像できないぐらいの

気持ち良さになるのではないだろうか。

 

 

「愛し合っている同士のセックスは

 どれぐらい気持ちいいのか」

 

ということをそういえば友人に聞いたことがなかった。

 

「俺たちモテないよな〜」

と傷の舐め合いばかりしていたからだ。

 

 

ともかく、愛すべき存在ができたことで

これからの自分は大きく変わっていくだろう。

 

さっき書いたような自分のゲスな部分も直視しながら

健全な関係を築いていけたらなと思う。

 

 

完璧主義はコストがかかる

 

日々生活していてつくづく思うのが

完璧主義はほんとに時間もお金も無駄にしてしまう。

 

 

完璧を期そうとすればするほど

どんどん労力がかかっていって

結果、ものすごく中途半端になったりする。

 

例えば本を読むときに、

1回でじっくり読むよりもザッと3回ぐらい読んだほうが

読むスピードも理解度も高くなることはわかっているのに

どうしても読み飛ばすことができない。

 

そしてどんどん「積ん読」されていく。

 

 

こうやって文章を書いているときも

論理的におかしくならないように

何度も消してはタイプしてを繰り返している。

 

そして、

「もういいや、めんどくさい」

と下書きのまま放置することになってしまう。

 

事実、下書きにしたままの記事が5つぐらいある。

 

 

僕がこのブログを書く目的を改めて考えると

「日々の生活や学びや考えたことを残しておくこと」だ。

 

そして残した記録や考えを

再び、考えるための材料にすること。

 

 

また、日記などではなくブログに書くのは

モビリティが高いから。

オンライン環境さえあればどこでも書いて、閲覧できる。

 

あとは、僕の記事を読んで

意見に共感してくれる人がいることがわかれば

それが学び、やる気に繋がる。

 

 

自分がブログを書く目的を考えれば

それほど体裁は気にしなくてもいいのかもしれない。

 

もっとトピックも自由に扱って

たまに論理がめちゃくちゃなことがあってもいい。

 

別にアフィリエイトしたり、ファンを集める気もないし。

 

 

でも、何かしら記事に反応してくれる方がいたら

それはとてもありがたいです。

 

僕には知らないこと、考えが足りないことが

まだまだたくさんあるから

指摘してもらえた方が学びが深くなるので。

 

 

そういうわけで、

細かいことにこだわってしまう性格は直せないけど

少しでも意識的に「適当にやる」ようにしたい。

 

考えるほどによくわからなくなる

 

前回の記事を書いたときを思い返すと

ただ単に気分が高揚していただけだった。

 

次の日の朝になると

「なんであんな極端な考え方になってしまったんだ」

と後悔がはじまった。

 

 

人間には「ホメオスタシス」という恒常性維持機能があって

一時的に気分が高揚したりしても

また平常運転に戻るようになっている。

 

僕だけかもしれないが、

思考の中身は気分に大きく左右されるので

気分と同じく、考えも日によって変わる。

 

幸せな気分なら前向きな考えが浮かぶし

疲れてるときは後ろ向きな考えになる。

 

 

ニーチェ

「寝る前に反省などするのは愚かだ」

と言っていた。

 

なぜなら疲れている状態で考える内容は

どうせ後ろ向きにしかならないから。

 

 

気分と考えの話はともかくとして

自分の中でなかなか答えが出ないのが

 

様々な物事に対して

「いったいどこまで考えるべきなのか」

ということ。

 

 

一般論としては「賢い方が良い」とされている。

 

例えば東大卒の平均年収はやはりダントツで高いし

賢い方が金銭的には豊かになりやすい。

 

僕も「賢い方がいいのだな」と

幼い頃からなんとなく感じていて

それなりに勉強を頑張った。

 

大学に入ってからもたくさんの本を読んで

賢くなろうとした。

 

 

ただ、ふと疑問に思う。

 

高い知性や膨大な知識をもった人間の方が

本当に「良い」のか?幸せになれるのか?

 

 

アルジャーノンに花束を

の主人公であるチャーリーは手術により

IQ200以上の知性を手にいれた。

 

あらゆる書物を読破し、高名な学者がバカに思えるほど

体系的な知識を獲得した。

 

しかし「賢くなれば幸せになれるはず」という期待とは裏腹に、

知りたくないことがわかってしまったり

仲間から疎まれたりして

チャーリーは幸福から遠ざかっていく。

 

 

芥川龍之介もものすごい賢人だったが

自殺している。

 

調べたところによると病や家族の問題があったようだが

遺書には「将来に対するただぼんやりとした不安」とある。

 

おそらく常人にはない複雑すぎる思考の産物として

その「ぼんやりとした不安」が生まれたのだろう。

 

 

僕自身が他の人よりも「賢い」かと言われたら

それなりに自信はある。

 

客観的に数値化するべきではないけど

偏差値でいえば60ぐらいかなという印象。

 

70以上の天才レベルではないことはわかる。

 

人よりも行動力がない分

情報収集したり思考する時間が長かったので

それなりの知性が備わってると思いたい。

 

 

ただ、僕が自信をもっているのは

中途半端な知性ではない。

 

「良い意志を持って生きたい」

という理性がよく働くことだ。

 

「良い意志」とはいったい何なのか

がまだ定まっていないからとてもぼんやりしているけど

「純粋で、美しい生き方をしたい」

という欲求があるのはわかってきた。

 

 

ただ、ふとしたことで苛立ったりすると

自分のプライドの高さを自覚して

 

「下品な人間に成り下がるのが嫌だ」

「他人に見下されたくない」

というのが本音なのかもしれないとも思う。

 

昨日、定期券を購入するときに

後ろの列に並んでいた小学生の女の子に

「早くしろ」と机をトントン叩かれて

ものすごく腹が立ってしまった。

 

「小学生はまだエゴの塊で

社会性を身につけていないからだ」

 

と無理やり抽象化して自分を落ち着かせようとしたが

腹の虫がおさまるのに時間がかかった。

 

小学生の女の子に

「ちょっと待てよ!」と怒鳴るわけにもいかず

ある種、理不尽な状況だった。

 

 

「自分が早く切符を買いたいからって

赤の他人をあからさまにせかすのは

自分勝手すぎる」

 

という理由で自分は怒っていたのかと思ったら

冷静に考えみれば

自分がなめられたことに対して

腹が立ったのだと気づいた。

 

 

つまり僕の内面なんてそんなものだ。

 

まだまだ自分を良くみせようと

必死になっている。

 

根本にあるのは「良い意志」などではなくて

「強すぎる承認欲求」なのかもしれない。

 

 

・・・と、まあこんな感じで

またどうどう巡りになってしまった。

 

全ての思考が繋がって、

自分や世界に対する認識がクリアになるのは

いつになるだろうか。

 

おこがましいけど

名高い哲学者たちもこんなふうに

考えては悩んでを繰り返していたのかな。

 

 

昨日家庭教師をしているときに思ったが

僕が人を叱れないのは

「これがよくてこれがダメだ」

という結論がなかなか定まらないからだろう。

 

他人のいう

「君の気持ちはよくわかった」とか

「このままじゃ君はダメになる」とかって

ほんとにわかって言ってるんかいな。

 

コミュニケーションにおいては

ある程度の決めつけは重要なのかもしれない。

 

 

ダラダラと書きましたがこの辺で締めます。