内省の日々

24歳。生きづらさを抱えてもがく。

会話がしんどいから生きづらい

内向的な人間は生きづらい。世の中に適応できないから内向的になったのか、内向的だから適応できないのかどっちなのか知らないが、生きづらいことに違いない。

 

僕の場合は、人と話すと疲れてしまうこと。無表情でボソボソと話しても良いのならマシだけど、取り繕った笑顔で声も相手に聞こえるように張り上げないといけない。

昔から通らない声だから、例えばお店で注文する時とかも大きな声を出さないといけないのがしんどい。調節を間違えて、変に大きすぎる声を出したら恥ずかしいし、それもあって余計に疲れる。

 

都会に住んでいると沢山の人たちの会話を見かける。みんな笑顔で楽しそう。本音ばかり話せるわけじゃないのに、疲れないのだろうか。

僕も本当に心を許した友達となら楽しく会話できるけど、それでもエネルギーを消耗している感がある。

 

僕の中で「会話」とは「細心の注意を払い、ベストな回答を探し続けるゲーム」のようなもので、「この質問にはどう切り返せばいい?これを言うのはNG・・・」みたいに無数の選択肢がずっと脳内でぐるぐるしている。

感じるままに、思いついたままに話せればいいんだけど、それだと自然な会話をできる気がしないし、そんなに無神経になれない。

 

僕は哲学的な考えや思考を刺激するような情報が好きだから、俗に言う「クソ真面目な話」ばかりの方がむしろ楽しめるけど、たいていの人はそうじゃないから、他愛のない話題を選んで話すしかない。

 

別にそんなの気にせずに好きなように話せばいいんだけど、相手に苦痛を与えるのもそれはそれで耐えられない。相手の感情に引きづられてしまうから、相手が楽しくなさそうだと自分も楽しくなくなってしまうからだ。だから自分が心地よくなるために、相手が好きそうな話題とか言ってほしそうなことを言うようにしてる。つまり八方美人。

 

こんなしんどい会話から抜け出すにはどうしたらいいだろう。1つは相手のことなんてお構いなしに思いついたままに話す。それか「クールキャラ」を装って、ボソボソと省エネで話すとか。

きっとできないんだろうな自分は。もう主人に擦り寄る犬みたいな話し方が染み付いてしまってるから。

 

人と関わらなければ生きていけない世の中で、人と接するのがしんどかったら、そら生きるのに疲れるだろう。じゃあ人と関わらなければいいじゃんと言われそうだが、それはそれで寂しかったりする。我ながら超めんどくさい奴だ。

 

これから社会人になって、もっとたくさんの人と話すようになったら、だんだん慣れてきたり会話スキルが向上したりして疲れなくなるんだろうか。まあそんときにはすでにジジイになってる可能性が高い。

 

別に僕はすごく貧乏な家庭で育ったとか、親に虐待されたとか、生活に支障をきたすほどの病気があるとかそんなんじゃない。人より少し身長が低かったりするけど、それが大きなハンデというわけでもない。

僕が他人に「生きづらいんです」なんて言ったら、「いやお前より辛い思いをしてきてる人はたくさんいるよ」と言われるに違いない。

 

ただ僕が思うのは、「生きづらさ」や「幸福度」なんてものは本人にしか分からないもので、貧乏だから不幸だとか、お金持ちだから幸福だとか側からみた状況だけでは判断できないということだ。もしかしたら美女をはべらせた大金持ちよりも、ホームレスの方が幸せを感じながら生きているかもしれない。

 

なんだか何が言いたいのかよく分からなくなってきた。毎度のことだけど。

「僕は生きづらさを感じてるのだ」と匿名ブログで表明して、いったい僕は何を得ようとしているのか。

まあ会話の何がしんどいのか具体化できただけでも意味があったと考えよう。

自分を立て直してくれるもの

最近どうにも活力が湧いてこない。

 

午前中までにやらないといけない就活の課題があったが、もう投げ出してしまえと思って何もしないまま昼過ぎになってしまった。

 

このままではダメになる一方だと思い、Netflixで「心温まる」カテゴリの中から
『グットウィルハンティング』という映画を観ることにした。

結果的に自分の中にあった抑圧的な感情が消え、本質的な視点を取り戻すことができた。

 

明らかに90年代につくられた古めかしい映像に序盤で観るのをやめようかと思ったが、清掃係の主人公がMITの学生でも解けなかった物理学の難問を解いてしまうところから引き込まれた。

 

アインシュタイン並みの天才的な頭脳を持ちながらスラムでヤンキー仲間と過ごす主人公を、MITの有名教授が見出す。しかし過去に虐待を受け、家族が一人もいないという境遇のせいで深く傷ついている。それをある心理学者が心を開かせていくという物語。

 

僕は感想を語るのが昔からとても苦手だから、作品の魅力をうまく伝えることはできないと思う。

映画や音楽や本は自分にとって「心の処方箋」のようなもので、感情的に捉えているから言葉や論理に落とし込んで説明するのが難しい。シーンやセリフのディテールも詳しく覚えていないし、それを自分の言葉で正確に描写できない。

 

人に語ることはできないけど、こういう素敵な映画を観終わった後には、感情が整理され、世界を新鮮で本質的な目でみることができるようになる。

 

一方で自分の目を汚してしまうものもある。例えばTwitterなんかがそうだ。

タイムラインを眺めていると、汚い言葉で罵り合っていたり、自分にはないキラキラした生活がひけらかされていたりするから。

 

心の通じ合った人との交流も、自分の目を良い方向に開いてくれる。

真に愛せる人と共に暮らせたなら、心は清らかなままでいられるのかもしれない。

 

こうやって文章を書くのも感情の整理の一つ。だから書く内容に脈絡なんてなくていいと思う。いつも一応はタイトルと関連したようなことを書き、キリの良さそうなところで終わっているが、それも別にそうする必要はないのにそうなるのは、僕の完璧主義的な性格の表れなのだろう。

 

最後に自分を立て直してくれるものをまとめておく。

心理描写が丁寧に描かれた映画、ジブリのピアノ音源、親友と居酒屋で語り合う夜、文章を書くこと、爽快に笑える映像、深い呼吸、自然を感じる静かな場所、本に囲まれたダークウッド調の書店、自分に対する心からの賛辞。

思いつくままに書いてみた

 

もっと思考の枠組みを外せば、面白いことができそうなのになと思う。

 

例えばお金を月に1億円稼ぐことで人生は幸せになるのかというと、そうとは限らない。別に生活できるだけの金さえあれば、金持ちより面白くて充実感のある生き方ができそう。

 

言葉にするのがどうも苦手だから、この感覚を客観的な形に落とし込めないのだけど、見えないものに目を向けることで世界は一変するんだと思う。

今は学生という身分のおかげで、時間に余裕がある。そのうちになんとかして、人生を面白くする方向性を見出しておきたい。

 

就活していて思うのは、生きる道なんて無数にあるし、いくらでも自分なりの生き方を作り出すことができる。

日本でそこそこの中流家庭に生まれたからこそ、こんなことができるのは分かっている。それは幸運なことだ。

 

日本には1億3千万いて、世界には70億人いて、こんだけの人がいるんだから自分1人が及ぼせる影響なんてたかが知れているし、世界を救おうなんて僕が思ったところで大きな力に抗うことはできないだろう。

 

じゃあ社会のどんな問題を解決したいのかとか、誰を救いたいのかとか考えてみるけども正直よく分からない。それに、そもそもヒトサマの人生をどうこうなんて考えること自体、どうなんだろうなと思う。

 

今日はけっこう思いつくままに文章を書いている。自分の思考なんてぜんぜんロジカルじゃないから、支離滅裂になってしまうのは仕方ない。僕は感覚人間だから、論理的に整理して人に伝えるのがとても面倒に感じる。時間をかければある程度はできるけど、なんか型にハマっててつまらない。就活で「1つ目に〜、2つ目に〜」とか話してると我ながら「寒っ!」と思ってしまう。

 

これはロジカルとか関係あるのかわからんけど「意味」は色んな場面で求めている。さっきカフェで久々に会った人がいて、突然の雑談が始まったけど「これなんの時間だ?」という疑問がずっと頭の中でぐるぐるしていた。こういうとこが僕が女の子にモテない要因だろう。

 

幸せとはなんだろう。それは自分をうまく騙すことかもしれない。忙しく仕事したり子供を育てたりすると、「生きる意味」とかそういうものを考えなくて良くなるし、なんだか良い気持ちで時が流れていくんだろうか。

 

今はわりと自由に思考できている状態だなと実感している。これがまた時が経つと焦りとか悩みとかが湧き出てくるのだろう。今はこういう状態ということで、ここに記録しておく。

就活をしているとモテる女性の心理が分かってきた

前回のどんよりした記事を書いてから1週間がたった。

 

この1週間は東京のシェアハウスに泊まり、就活をしていた。

良い出会いがいくつかあって、前向きな気持ちに変わってきた。

 

1つはシェアハウスに置いてあった『内定力』という本。

コテコテのタイトルだなと思って読む気が失せかけたが、読んでみると今の自分に必要な内容が書かれていた。

 

例えば「就活は人事を信用させるゲーム」ということや、人間を8つのタイプに分けてそれぞれの特徴を知ることで、自分の個性が分かったりとか。

 

何より良かったのは、面接で「もっと個性を出していけ」というアドバイス。「ワタクシは〜」「御社の強みは〜」みたいなテンプレを人事は聞き飽きてるから、とにかく自分の言葉で話すべきとのことだった。

実際に試してみると明らかに食いつきが良く、自分も面接を楽しめるようになった。

 

2つ目は就活イベントで何社かに気に入られ「モテ女」のような気分を味わうことができたこと。

モテる女の子は普段から多くの異性に言い寄られていて、選び放題の状態。そんな子と付き合おうと思ったら、何か運命的なものを感じさせたり、濃い関係を築いていなければ厳しい。

 

これを就活に置き換えると、倍率が数十倍になるような会社はともかくとして、中小企業がモテる学生を自社に引っ張ってくるのは相当難しいことが分かる。

学生に自己分析が必要なように、選ぶ側の会社も他社との違いや個性を明確にしなければ「この会社こそが運命の相手だ」と思ってもらえない。

 

そして僕自身はと言えば、就活生の中ではけっこうモテる方なのかもと思い始めた。大学生活では女の子にモテなかったが、幸い企業にモテるような考え方やスキルを身につけることはできたらしい。

 

それで今の僕には複数の選択肢が与えられているわけだが、ある程度の裁量を与えてもらえる会社であればどこでもいいのかもしれない。自由に動ければ、自分の工夫次第でどんな仕事でも面白くできるはずだから。

 

ついでに会社選びの基準を整理しておく。

 

<プラス>

・若手に裁量が与えられ自由に動ける

・無限にアイデアを試すことができる

・変化が激しい

・主体的で個性的な社員が多い

・過去に何人か起業している

・人のためになっている実感が得られる

・合理的で意味のあるビジネス

 

<マイナス>

・倫理に反していると感じるビジネス

・手順が決められ、個性を生かす余地がない

・外向的な人が多く、明るく振る舞わないといけない

・高圧的、独善的な上司・経営陣

・不合理で存在意義の感じられないビジネス

 

特に重視したいのが「自由」と「多様性」で、これさえあればどこでも良い。

 

自由と言えば、リクルート最年少役員の出木場さんの存在には勇気をもらえた。

newspicks.com

「自由を制限させられることに2秒も堪えられない」そんな人が、リクルートという大会社の役員に登り詰めている。

自分がこの人ほどの商才を秘めているかはともかく、「やりたいことだけやる」マインドでも企業の中で高く評価されることがあるんだと勇気をもらえた。

 

しかも今の時代は転職もしやすいし、副業もできるし、起業だってやろうと思えばできる。選択肢が無数にありすぎて疲れるとは思うけど、自由な社会へとシフトしていっていることは間違いない。

こんな時代に義務教育で強制的に同じ箱に入れられるなんておカド違いだし、そんな狭い世界でいじめられて絶望して自殺を選んでしまうなんて悲しすぎる。

 

収まりどころが分からなくなってきたが、とにかくこの1週間東京に出てきて良かった。うるさいシェアハウスと都会の喧騒に消耗して、何度大阪に逃げ帰りそうになったか分からない。たまには無理してみるのも悪くないなと思った。

この苦しさは未熟さゆえの甘えなのだろうか

久々にブログを書くことにしたのは、何か吐き出さないとこの苦しさをどうにもできないと思ったから。

 

とにかく疲れている。腰と足に謎の湿疹ができて一晩中かゆい。

皮膚科で診てもらったら原因不明と言われた。おそらくストレスのせいだろう。

 

疲れの一番大きな原因は就職活動だ。僕は人よりも自己肯定感が低いから、ジャッジされるということ自体にいちいち過剰反応してしまう。大して行きたくない企業でも、お祈りされると自分の価値を疑ってしまうようになる。

 

疲れを癒したい、自尊心を保ちたいという動機で異性のパートナーを作ろうとしたが、これも結局、自分の男としての価値を値踏みされているような感覚に陥り余計にストレスが溜まってしまった。

 

別にこの苦しさが誰かのせいだと言いたいわけではない。むしろ何でも自分のせいだと感じてしまうから、勝手に自信を失って精神的ダメージを受けている。一方で「人のせいにしてこなかった」自分を誇りに思っている面もあるから、相当こじらせている。

 

この文章を書いている時も、体裁とか読み心地とかを気にしていて、いったい自分はどこまで気にしいなんだと辟易としてくる。ただこうやって書いて吐き出すと幾分かスッキリしてきた。

 

あとは、働くことに対する不安が強まっている。気疲れしやすいから職場環境や人間関係がちょっとでも自分に合わないと辛くなるだろう。それに気分屋で体力もないから、計画を立ててコツコツと仕事に取り組むなんてこともできる気がしない。

 

そんな自分を信用できない。これなら本気でやれる!と熱くなっていた感情が、次の日には消え失せているという経験を数えきれないほどしてきたから、明日の自分が信じられなくなってしまっている。気分屋で飽き性の自分が継続的に情熱を注げることが見つかればいいのだが、なかなか難しい。

 

先月末に実質バイトをクビになってしまった。原因は遅刻と欠勤の多さ。朝起きて、オフィスに行く気分じゃないなと一度思ってしまったら、もうベッドから出られない。これは中学生ぐらいの頃から染み付いてしまった習慣だ。

 

これはただの甘えなんだろうか。間違いなく言えるのは、自分にはハングリー精神がない。劣等感はあるけど、飢えて死んでしまうかもしれないみたいな危機感が微塵もない。親は放任主義で、ある程度お金のある家庭だから、その状況に甘えてしまっているのだろう。

 

バイトをクビになる時に社長に言われたのが「君を厳しく叱ってくれる人はいるのか」ということだった。一時的にはそんな存在はいたが、厳しく叱られても数ヶ月も経てばすっかり忘れてしまう。

 

いつも通り脈絡のない文章だけど、自分の問題意識はある程度書き残せたと思う。

後日これを読み返して何か気づきや解決策は生まれるだろうか。

 

何も前に進まないとしても、書くことを改めて習慣にしていきたい。疲れ果ててしまったのはブログや日記を書いたり、寝る前に瞑想をすることをしていなかったからかもしれない。

そんなわけでこの辺で終わります。

変えられるものを変えていく勇気

神よ、与えたまえ。

変えられないものを受け入れる平静な心を、

変えられるものを変えていく勇気を、

そして、その両者を見分ける知恵を。

これは「ニーバーの祈り」と呼ばれる有名な一節である。先月購入した『問題解決大全』で紹介されていた。今日もまた風呂場で、この一節に関するひらめきがあったので書き残しておく。

 

この一節を一言で表すなら、「自分が変えれることだけ考えよう」ということだと思う。昔から何事も真剣に捉えてしまう僕には、この考え方が生きていく上で重要ではないかと気づいた。

 

例えば僕は「この世界で生きているのは自分だけかもしれない」とか「実は自分はずっと夢の中にいるのかもしれない」という空想をよくするのだが、本当はそうだったしてもそれを確かめる術はない。

 

しかも、こういう思考はたいてい生産性のない方向に向かう。「生きてる意味なんてない」とか「どうせ夢なら何やらかしてもいいやん」とか「どこまでいっても自分は孤独で寂しい」などという破滅的な考えを生む。

 

こんな考えたってどうしようもないことにモヤモヤしている暇があるなら、今生きているこの瞬間をもっと味わったり、「自分の周りの大切な人たちに何を与えられるだろうか」ということを考えた方がいい。

 

『問題解決大全』では「ニーバーの仕分け」というメソッドを提唱しており、まず問題や課題を細分化し、それぞれに「可変度」という数値を割り当てていく。(可変度とは、文字のごとく「その対象の変えやすさ」を意味する)

 

「可変度の高いものから順にアプローチしていけば問題解決の可能性が高まる」というわけだ。例えば「過去の出来事」の可変度はゼロに近いが、「過去への解釈」は可変度が比較的高い。

「なんであんなことをしてしまったんだろう…」と黒歴史を悔やむ人よりも、「あの苦い経験があったからこそ今の自分がある」「次は同じ失敗をしないようにしよう」という前向きな解釈をする人の方がよっぽど生きやすいだろう。

 

これは思考だけではなく、あらゆることに当てはまる。

 

例えば恋愛なら「身長が低いからダメだ」じゃなくて、「低いから可愛がってもらえる」だとか、髪型や服装を変えるとか、話術を磨くとか、はたまた収入を増やすとか「可変度の高い道」はいくらでもある。

 

僕が小学生からやっている麻雀も同じで、「運」や「流れ」などコントロールできないものを無視して、「見えている牌から確率を考える」ことが勝ちに繋がる。

 

今後、何かくよくよ悩み出してしまったら、「悩んだところでどうにかできるか?」「それは変えられるのか?」と自分に問いかけて地に足の着いた思考をするようにしたい。

  もし誰かに悩みごとを相談されたときは、まずは気持ちを受け入れた後に「変えられるところから少しずつ手をつけていこうよ」と言おうと思う。

 

とはいえ「変えられないもの」に執着してしまうのが人間らしさなのも事実だ。

母は今、祖母が亡くなった喪失感からなかなか抜け出せないでいるが、そんな母に「いくら悲しんでもおばあちゃんは帰ってこないよ」と言うのは心苦しい。

 

大切な人を喪う悲しみを癒すには、きっと長い時間が必要なのだと思う。「この苦しみもいつか時が解決してくれる」それを信じて、辛いことがあったとしても、命を投げ出すことだけはしないでおきたい。

 

そして自分の大切な人が苦しみや悲しみを抱えているのなら、何もできないかもしれないけど、せめてその人の味方でいたい。こんな綺麗事はブログにしか書けないけど、「自分に言い聞かせる」という意味で書き残しておく。

 

我慢は美徳じゃない

今日も8時間労働をしてきた。正確には寝坊して7時間半だったけど。

 

10時ー19時という時間帯でいつも働いているのだが、17時を過ぎると急激に集中力が無くなってくる。

仕事内容は「記事の編集作業」で、けっこう頭を使うしずっと画面に向かっているので精神的な負荷が大きい。メンタルはやられないけど、意志力の消耗が激しい仕事だ。

 

ほんとに日本人はこれを毎週5日連続でやっているのかと思うと、とても信じられない。試しに「8時間労働 無理」でググってみると、こんな記事が出てきた。

quit-job-tomorrow.com

 

この方が言うところによると、「8時間」に特に合理的な根拠はないらしい。19世紀末の労働者が「8時間にしろ!」と政府にクレームを入れたからそうなっただけ。

確かに人間の集中力が8時間も持つはずがないことは、僕みたいな若造でも分かる。

 

さらに生産性トップのアイルランド人たちは1日に「6時間半」しか働いてないらしい。僕の集中力が切れるのも6時間後ぐらいなので、自分がヤワ過ぎるわけではないことが分かった。

 

8時間を基準にして「労働基準法」が定められているのだとすれば、法律や政治というものも案外いい加減なものなのかもしれない。国のルール的な方面に疎い僕は、政治や法律はすごく合理的なものだと思い込んでいた。

 

よくよく考えれば未だ非合理なルールが残っているのは当たり前のことだ。なぜなら科学的常識が塗り替えられて現状のルールが「非合理なもの」と判明したとしても、ルールを変えるためには多くの手続きが必要になるから。

 

だから「8時間も働いたら集中力もたないんじゃね?」と国のお偉いさんが気づいて、よっこらしょと重い腰をあげるのを待っていても仕方がない。「どうすれば6時間労働でも食っていけるのか」それを法律に触れない範囲で探っていく必要がある。

 

さっき紹介した記事の人もそうだけど、8時間未満の労働で食っていける手段として「インターネット」は大いに活用すべきだと思う。僕も3年ぐらいネットビジネスに関わっていたことがあり、ただの学生が月に数十万、数百万を稼ぐという例も少数だが実際にあった。

 

僕が今ネットで食うために動き出していることは2つあって、1つが「ワードプレスアフィリエイトブログ」を立ち上げることだ。

アフィリエイトで月5千円以上稼げる人は5%ぐらいしかいない」というデータがあるように簡単なことではないが、社会不適合者の自分は5%以内に入れるはず(?)という謎の自信がある。

 

もう1つが「ウェブ解析士」の資格を取得することだ。たまたまコンビニで立ち読みした雑誌でこの資格を見つけ、「これだ!」と思った。おそらくこの資格を取ることでたくさんのメリットが得られる。

アフィリエイトには確実に役立つし、Webコンサルができるようになったり、セミナーができるようになったり、ネットで生計を立てる人たちとの繋がりが作れたりする。

 

専門的なウェブ解析の力を身につけたら、それを生かしてアーティストプロデュースなんかもやってみたい。『感覚ピエロ』のように現代はネットの力を生かし、セルフプロデュースで活躍するアーティストが現れ始めている。

もし「この人に売れてほしい。応援したい」と思ったアーティストと二人三脚で高みを目指すなんてことができたら、すごくワクワクするしやりがいがあると思う。

 

こんな感じで、最近は自分の進むべき道がどんどん明確になってきている。1年前は目の前が真っ暗になったようにどん底だったけど、人生は落ちるときもあれば上がるときもあるらしい。

父が「人生は山あり谷ありやで」と言っていたのが今になって思い出される。

 

これから辛いことも苦しいこともたくさんあるだろうけど、今はただ前に進み続けたい。