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内省の日々

とある学生の頭の中

お金の使い方が下手すぎる

生き方

 

最近の悩み。

 

お金の使い方が本当に下手だ。

 

あまり稼ぎがないくせに、

短期的な欲望に負けて散財してしまう。

 

 

僕は昔から我慢がきかない性格だった。

 

思い返せば小学生時代から、

お小遣いのほとんどをカードゲームにつぎ込み

貯金などできたためしがなかった。

 

 

大学に入ってから僕の散財に拍車をかけたのは

クレジットカードだ。

 

「使いすぎたとしてもリボ払いにすれば

当面は月5000円でしのげる」

 

こういう多重債務者の典型的な思考に陥り

一時期は70万ぐらいにまで負債が増えてしまった。

 

ちなみにこの70万は親に借金して帳消しにした。

我ながらクソすぎる。

 

 

僕のこの散財癖を根本から直すためには

お金の使い方以前に

「欲望」をどうにかしなければならないように思う。

 

もちろん欲望は本能に近いので

完全に制御することはできない。

 

でも、なるべく欲望がわかないような

仕組みを作ったり

考え方を持つようにすれば

多少は抑え込めるのではないか。

 

 

僕が欲望を抑える考え方(生き方)として注目しているのが

ミニマリスト」だ。

 

本屋に行くとこの手の本を見かけないことがないぐらい

ミニマリストブームになっているようだ。

 

情報感度の低い母ですら、

部屋のものをどんどん減らして

ミニマリスト的な考え方を取り入れている。

 

 

お金持ちの成功談などを読むと

必ずといっていいほど出てくる言葉がある。

 

「いくらお金を稼いでも幸せにはなれない」

 

なぜなら欲望には際限がないから。

 

お金を稼いで欲しかったものが買えると

またすぐに「もっと良いもの」が欲しくなる。

 

お金をいくら稼いでも、

欲望をどうにかしない限り

このループから抜け出すことができない。

(億万長者レベルだと話は違うかもしれないが)

 

 

イケイケの営業団体で働いていたときは

まさにこの欲望のループに陥っていた。

 

「金持ちになればもっと幸せになれる」

と信じて疑わず、

ひたすら目の前にぶらさげられたニンジンを追い

稼いでは散財してを繰り返して疲弊していた。

 

 

昨日、女の子とデートしていたときにも思ったが

基準が高すぎる人生はとてもしんどい。

 

500円のランチで満足できる人と

3000円のランチじゃないと満足できない人

どちらが幸せになれるだろうか。

 

職場に付き合いたい女の子がたくさんいる人と

芸能人レベルの美人じゃないと付き合いたくない人

どちらが幸せになれるだろうか。

 

どう考えても前者だ。

 

 

しかし、自分の中の基準を下げるというのは

そう簡単にできることではない。

 

例えばAKBのものすごい美人な子と

何度も握手しながら話して恋に落ちてしまったら

一般人と恋愛しようにも

無意識に芸能人レベルの基準を当てはめてしまう。

 

「会えるアイドル」とか「超美人なAV女優」

なんかで味をしめてしまった男性たちに

なかなか彼女ができないのは当然のことだろう。

 

 

んー、なんだか書いていて

解決策が見えなくなってしまった。

 

欲望を抑えたり基準を下げたりするのは

簡単じゃないけど

「周りのモノを減らす」

ことをすれば考えも変わってくるかもしれない。

 

とかく今の時代は

情報やモノが洪水のように流れこんできて

疲れ果ててしまう。

 

そんな中で僕たち個人は

遮断したり捨てたり絞ったりして

少しでも洪水に飲み込まれないように

抵抗していかなければならないのだろう。

 

なぜ他人に親切にしたくなるのか

生き方 考えたこと

 

先日、NHKの説明会の帰りに起きたこと。

 

地下鉄に車椅子の方が乗ってきた。

 

僕がいたのは車椅子用の手すり付近で、

ちょうど手すりのところには女性が立っていた。

 

車椅子の方は女性がいるので手すりが掴めず

扉付近の手すりに頑張って手を伸ばしてつかまっていた。

 

ちょっと状況がわかりにくいけど

要は女性が手すりに気づかず立っていて

車椅子の方が困っているということだ。

 

 

僕はその様子をみて、逡巡した。

 

女性にそこをどいてもらうように声をかけるべきか。

 

でも、、、

 

 

「でも」・・・なんだろう。

 

このとき僕は何を考えて迷っていたのか。

 

そもそもなぜ第三者である僕が、

この出来事に干渉しようと思ったのか。

 

この逡巡の中に、

「親切心」の構造が隠れている気がする。

 

 

僕が考えていたことを列挙してみると

 

・車椅子の人が乗ってきたのに手すりに気づかないなんて

 無神経な人だな(女性に対して)

 

・周りの人は気づいてないのか?

 気づいてたのだとしたら声をかけるべきじゃないのか

 

・ここで声をかけても

 車椅子の人に変に気を遣わせたり

 周りの注目を集めてしまったりして

 逆に迷惑になるかもしれない

 

・女性や周りの人に

 「良い人ぶりやがって」

 と思われるのは嫌だ

 

・僕は他人に親切にできるほど

 良い人間なのだろうか

 ただの「メサイヤコンプレックス」なんじゃないか

 

・でも社会に対して

 「優しくない」「汚い」

 という不満を持っておきながら

 保身のために目の前の出来事から目をそらすのはずるくないか

 

こんなことを考えていたように思う。

 

別に何かのアピールじゃなくて

僕は普段から無駄に考えすぎてしまう

ということが言いたい。

 

 

僕を迷わせた大きな原因は

アイデンティティ」(自我同一性)

にあるのではないだろうか。

 

目の前で起こったことにどう反応するかは

「自分はどんな人間なのか」

というフィルターを通して決定されるのではないか。

 

 

『影響力の武器』などの心理学系の本にも

「一貫性の原理」というのが紹介されていて

人は自身の言動、態度、信念などに対して一貫したものにしたい

という心理が働くらしい。

 

 

こう考えると、

人に親切にしようとする人間は

「今までの自分は親切なことをしてきた」

という行動面での一致

 

あるいは

「親切なことをする自分でありたい」

という態度・信念の一致

を求めているのではないだろうか。

 

 

宗教を信仰することで、人が利他的になるのは

「人に親切にすべき」という信念が根付いて

一貫性の原理が働くからだろう。

 

 

書いていて気づいたけど

アイデンティティは一貫性の原理の中に

内包される概念なのかな。

 

発言、行動面での一致

アイデンティティ

 

ちょっとよくわからなくなってきた。

 

 

結論として

僕はこれからどう考えてどう行動するのかというと

やはり「他人に優しくできる人間」で在りたいと思うし

他人に親切にしたい。

 

僕が憧れる人物は

実在の人でも創作の人でも

他人のために一生懸命になれる人だ。

 

UVERworldTAKUYA∞フルーツバスケット本田透

なんかにとても憧れる。

 

自分が良い風にその人を切り取ってみてるだけかもしれないけど。

 

でも、そういう人の在り方は

とても美しいと思う。

 

とにかく自分の利益や保身ばかりを考えるような

汚い人間にはなりたくない。

 

 

別に僕は良い人間じゃないし

とても利己的なことはこれまでの自分の言動を振り返れば

イヤというほどわかる。

 

それでも、ありのままの自分は良い人間じゃないかもしれないけど

「良い人間」になりたい、そう在ろうと

本能や欲望にあらがうことが理性であり

立派な人間への道なんじゃないだろうか。

 

 

すごくキレイゴトを言ってしまった気がするけど

今の自分の考えはこんな感じということで残しておきたい。

 

 

補足:

 

僕は地下鉄の件で結局どうしたかというと

女性にできるだけソフトな口調で声をかけた。

 

「すみません、車椅子の方の手すりがあるので

 どいた方がいいんじゃないでしょうか」

 

それを聞いた車椅子の方が、ギョッとした顔で僕をみて

「あ、大丈夫ですよ!」

と僕と女性に慌てた様子で説明されていた。

 

それで僕は恥ずかしくなってしまって

「あ、すみません」

とその場から離れた。

 

「おせっかいだったのかもしれないな・・・」

とその時は後悔していた。

 

そして電車を降りたときにふいに肩を叩かれた。

 

振り返ると車椅子の方で

「ありがとうございました」

と言ってくれた。

 

その一言でなんだか救われた。

 

変に注目を集めてしまって

恥ずかしい思いをさせてしまったかもしれないけど

「世の中には親切にしてくれる人間もいるんだ」

とその人が感じる経験になってくれたら嬉しいと思う。

 

 

とはいえ、この行動が本当に正しかったのかはわからないし

そもそもなぜ僕はこういう行動を起こそうと思ったのか

が気になってこうして記事にしてみた。

 

最近僕が思うのは、

社会や組織という1人では扱いきれない大きなものに不満を持つのなら

まずは自分自身が目の前の小さな場面で

行動を起こすべきなんじゃないのかということ。

 

例えば環境問題を憂うのなら

その影響はわずかだとしても

自分の家だけはエアコンをつけないようにする

車に極力乗らないようにするとか。

 

僕が尊敬する人物は

大きなことを成し遂げたいと思う前に

目の前の人たちを大切にすべきだと言っている。

 

全くその通りだと思う。

 

 

 

 

評価されるのが怖い

就活 生き方

 

就活がスタートして1ヶ月が経とうとしている。

 

今月末にエントリーが締め切られる会社が多いなか

僕はまだ1社もエントリーできていない。

 

僕はなぜ動けないのだろうかと

悶々と考えていた。

 

おそらく僕は「評価されるのが怖い」のだ。

 

 

大学4年間を僕の中では妥協せずに過ごしてきたつもりだ。

 

2年近くやった営業で、自分が不甲斐なくて

涙が止まらなくなってしまったこともあった。

 

弱い自分と戦いながら、

自分を成長させるために頑張ってきたつもりだ。

 

大学に入学したての頃と比べたら

考え方も大人になったと感じるし

色々なことを経験して

知識だってたくさん増えた。

 

間違いなく、自分はレベルアップしているはず・・・

 

 

でも、僕が4年間、試行錯誤してきたことを

いざ企業にアピールするとなると

どうも怖気づいてしまう。

 

うまく伝わらなかったらどうしようとか

別にお前なんか大したことない

と思われたらどうしようとか

 

何もしないうちからビビってしまって

エントリーどころか企業のリサーチすらできていない。

 

 

大学受験のときも

自分の本当の実力を知らされるのが怖い

と思ってしまったけど

就活の方がもっと怖く感じる。

 

大学入試は面接とかがないから

かなり客観的な評価で合否が決まる。

 

しかし就活は、面接官との相性や好みなどもあり

入試よりかなり主観的だ。

 

だから、攻略しようにも確実な攻略法はないし

むしろ変に作り込みすぎて失敗する

ということもありうる。

 

就活でうまくいかなくて自殺する人がいるのは

今となればわかる気がする。

 

 

受験勉強や営業でうまくいったときは

自分の中で「スイッチ」が入って

いわゆるフロー状態のようだった。

 

しかし今はどうもスイッチが入っている気がしない。

 

単に腹をくくれていないだけかもしれないが・・・

 

 

人間というのは、

頭では「こうするのが正しい」とわかっていても

心や体がどうしてもついていかないことがあるらしい。

 

でもそういうときは、自分の本音を探るチャンスなのかもしれない。

 

あとは自分の背中を押してくれる存在も必要なのだろう。

 

 

もっと強くなれたらいいけど、

強くないからこそ人に優しくなれたり

立ち止まって考えることができたりする。

 

こういうふうに真剣に自分と向き合わざるをえないから

就職活動は人生の中でとても大事な時間なのだろうな。

人生初、ナンパしてみた

就活 学び

 

昨日は人生初のナンパというものをしてしまった。

 

色々なきっかけが積み重なった上での

ある種、運命的ともいえるナンパだった(神聖化しすぎ笑)

 

 

最初のきっかけは「絶対内定」という就活本の中に

「ひと皮むけるような経験をしろ」という下りがあって

その例としてナンパが紹介されていた。

 

 

「街中でものすごくタイプの女の子を見かけたとして

『どうしようかな。声かけようかな』

という迷いが生じる。

 

たいていの場合は声をかけずに通り過ぎてしまって

『もし声をかけてたらどうなってたのかな』

と軽く後悔することだろう。

 

だが、そこで実際に声をかけたならどうなるか。

無視されて恥をかくかもしれない。

 

でもきっと、君は勇気を出して声をかけた

自分のことを好きになるだろう』

 

 

と書かれていて、妙に納得してしまった。

 

僕は惚れやすいタイプで、

街中で可愛い子を見かけるたびに

「あんな子と付き合えたらなー」

と指をくわえてみていた。

 

高校のときも好きな子が隣の席にいるのに

緊張して一言も話せなかったりした。

 

そんなチキンな自分と決別するためにも

ナンパしてみるのもいいかもしれない

と思い始めたのだった。

 

 

次のきっかけはナンパする前夜。

 

仲の良い友達と就活について話しながら

飲んでいた。

 

「説明会行くとけっこう可愛い女の子いるよなー」

と盛り上がっていると

そいつがこんなことを言い出した。

 

「説明会で隣になった子とかに

 よく声かけられたりするよ。

 別に声かけられても不自然じゃないし

 お前も声かけてみたら?笑」

 

この言葉を聞いて、

「モテやがって」と悔しくも感じたが

「もしかしたら説明会なら俺も声かけられるかも」

という希望がわいた。

 

そして場の勢いで

「じゃあ明日の説明会で声かけてみるわ!」

と友達に宣言してしまった。

 

 

次の日、変な決意を胸にして説明会に向かった。

 

目当ての企業の説明会が始まるまでに時間があったので

僕はブースの近くで待機していた。

 

ナンパしたのは、その時だった。

 

 

すごくタイプの女の子が20M先ぐらいの列に並んで

「可愛いなー」と思ってみていたら

バッチリ目が合ってしまった。

 

しかもいつもならすぐ逸らされるのに

向こうもジーッと見つめてきたのだ。

 

ここで僕は

「これはいけるかもしれない」

と思い始めた。

 

 

正直すごく迷った。

たぶん3分ぐらい迷ってたと思う。

 

今までの僕ならきっと声をかけられないまま終わってただろう。

 

でも昨日の友達との一件があったから

「このタイミングでこんな機会が巡ってきたのは

もしかしたら運命なのかもしれない」

 

と思い切って自分も列に並んだ。

 

そして

 

「すみません」

 

と声をかけた。

 

 

ほんとに勘違いかもしれないけど

向こうも「待ってました」という表情で

僕の質問に答えてくれた。

 

しかも会場に入ったら

ちょうどはじっこに2席分空いていて

「なんかできすぎだな、これ」

と内心笑ってしまった。

 

 

そして、別れ際に

「また就活について情報交換しましょう」

という体でLINEを交換することができた。

 

 

このとき僕は

「別にLINEブロックされてもいいや」と思った。

 

勇気を振り絞って行動したことによって

僕はたしかに自分のことが少し好きになった。

 

一皮むけるとはこういうことなのか、とも思った。

 

 

「ナンパ」というと、なんだか不謹慎だなと思う人が多い。

僕も以前はそう思っていた。

 

でも、向こうの女の子も喜んでくれているなら

別に悪いことじゃないし

 

勇気を振り絞って行動することで

自分のことが好きになれるなら

ナンパっていいものかもしれない。

 

 

「おい、真面目に就活しろ」

というお話でした。

コンプレックスについて

考えたこと 生き方

 

 

去年の冬ごろから、急に自分の身長のことが気になりだした。

 

高校生のときに163センチぐらいしかなくて、

たまにチビとかバカにされて悩んでいた以来だ。

 

実家に帰ったときに母親が「あんた背伸びたんじゃない?」と言ってきたので

家の柱で簡単に測ってみたら168センチぐらいになってた。

 

それでも平均以下なのだが、けっこう嬉しかった。

 

 

ただ、日が経って自分が168センチなんだと自覚してくると

「170センチまであとちょっとなのにな・・・」とまた悩み出した。

 

今では巻尺を買って自分の家で頻繁に身長を測ってしまうぐらい、

病的な悩みになってしまった。

 

自分で測っても正確な値がわからなくて、173センチぐらいになって浮かれて、

別の日にもう1度測るとやっぱり168センチだったりする。

 

 

僕は都会に住んでいて、外に出ると大量の人とすれ違う。

 

平均以下だから、大半の男性よりは自分の方が低くて、たまに自分より低そうな人がいると変な優越感が芽生えてくる。

 

すごく失礼だし、そんなことばかりを気にする自分が嫌になる。

 

 

コンプレックスというものは本当に厄介なものだなとつくづく思う。

 

しかも身長などのように努力ではほとんどどうにもならないことは、変にこじらせてしまいやすい。

 

どこかのネットリサーチでみたが、男性のコンプレックスで最も多いのは「身長」らしい。

 

身長は客観的で人と比べやすいし、高身長の芸能人がもてはやされているのもあって

多くの人が気になってしまうのだろう。

 

 

人間は動物だから、異性を求める本能が備わっている。

性欲というやつだ。

 

たいていの男は性欲が強烈だし、仕事や勉強を頑張る理由の根本には

「かっこよくなって女の子にモテたい」というのがあったりする。

 

バンドマンがバンドを始める理由も「モテたい」がやはり最も多い。

 

 

身長が女の子にモテる上で重要なファクターになるのならば、気にするのは当然だろう。

 

ただ、最近では背の低い男子を「かわいい」といって気に入る女性もいるみたいなので背が低いからといってモテないわけではないみたいだ。

 

嵐の二宮や大野も160台の身長だけどかなりの人気だ。

 

 

ただ、男の視点でみれば背が高いほうが強そうだし、

180台の人にケンカを売られたらほぼ勝ち目はないだろう。

 

動物的に勝てない、というのは僕のような若造にはけっこう辛い。

 

僕がずっといじられキャラだったのも、性格もあるかもしれないけど

身長が低いのが大きいと思う。

 

 

こんなことを考えていると、ふと「自分が身長180センチだったらなあ」と思ってしまうことがあるが、こういうことを考えてしまう時点でまだまだ精神的に未熟なのだろう。

 

身長に限らず、「自分がもしこうだったら」という考え方をしてしまうことは多い。

 

理想は「それも個性だ」と受け入れてしまうことなんだろうけど、

いざ外に出て他人の目にさらされると、その信念が揺らいでしまう。

 

 

しっかりと恋人を作って、パートナーに愛されているという実感があればこんなことは考えないのかもしれない。

 

それはそれで、「他人の評価に依存した状態」なのかもしれないけど。

 

 

この記事を何年後かに自分が読み返したら、どう感じるのだろうか。

 

もしかしたらもっとコンプレックスをこじらせてるかもしれないな。

 

アホなこと考えてたなーと言えるようになってたらいいな。

正解を求めて

生き方

 

最近は毎日のようにお気に入りの本屋に通っている。

 

つい気分が落ち込みそうになると、足を運んでしまうのだ。

 

もはや「本屋依存症」かもしれない。

 

 

大学に入ってからというもの、次々に本に手を出すようになった。

 

僕はきっと「正解」を求めているのだろう。

 

自分の考えや価値観に自信がないから、他の人の考えや価値観を覗いて

自分の考えが「正しい」ものなのかを確認したくなる。

 

すごそうな人の意見に影響されやすくて、セミナーとかに参加するとすぐ熱くなってしまう。

でも何日かたつと、その人の意見を忘れてる。熱しやすく冷めやすい。

 

 

そろそろ他人の意見に頼りすぎるのはやめよう。

 

これでも22年は生きてきたのだから、それなりの経験はあるし、それなりの意見もちゃんと自分の中にあるはずなんだ。

 

仕事とかになるとぜんぜんわからないけど、例えば人間関係などは十分語るに値する経験を積んでいると思う。

 

インプット過多になりすぎたから、もっとブログでアウトプットしていきたい。

 

「誰かが言った意見」を引っ張ってきてここに書くんじゃなくて

できるだけ自分でウンウン考えてひねり出した言葉で書きたい。

 

読者になってくださってる方は記事の更新の通知がうっとうしいかもしれませんがご容赦ください。

就活が始まった

就活

 

3月に入って、就活が本格的にスタートした。

 

僕もスーツを着て合同説明会なるものに参加してきた。

 

新聞記者の方やテレビプロデューサーの方に個人的に話を聞きに行くと

とても面白かった。

 

プロデューサーの方からは情熱や仕事に対する愛を感じたし

記者の方からは内に秘める静かな炎のようなものを感じた。

 

僕もあの人たちみたいに自分の理想や信念に従って働きたい。

 

 

情報収集と並行して、「自己分析」というのもやり始めている。

 

たぶん今から始めるのは少し遅いのだろうな。

 

思えばこのブログも自己分析の材料になっている。

 

もう1度読み返してみようかな。

 

 

自己分析本のワークに従って書いていくのもいいけど

このブログで、枠にとらわれずに、考えてることを書いていこうと思う。