週5で働ける気がしない

今年に入ってから頻繁に体調を崩すようになった。

 

1月は謎の腹痛をきたして腸カメラの検査をした。

結果的に何も異常はなかったが、おそらくストレスが原因で便秘になってしまったからだと思われる。

 

そして2月に入った今、熱を出してバイトを休むことになった。

 

 

なぜこんなにも体調を崩しているのかを考えてみると

9月までのニート状態から、いきなり週3フルタイムのバイト(営業系)を始めたのが原因ではないかと思う。

 

しかも先月末からはもう1つ新たにバイトを始めて週5フルタイムになった。

これだと普通に就職して働いてるのと変わらない感じだ。

 

僕の大学の同期は去年の4月から新卒で働き始めているので、僕が週5で働くのは世間一般からみれば何もおかしなことではない。

 

しかし、たった数ヶ月(しかも週3)でこれだけ心身に異常をきたした僕が「ふつうの人」と同じように週5フルタイムで働けるとは思えない。

 

1年もしないうちに鬱とか胃潰瘍とかになって退職することになりそうだ。

 

まあ半年間のニート状態からの反動もあるだろうけど、それにしても週5は辛い。

 

僕は必要以上に人に気を遣ってしまうタチなので、8時間も人と一緒にいるとかなり消耗してしまう。

 

 

先月末にバイトの一人が辞めることになって、数人で送別会をした時もしんどかった。

 

女3男2で飲んでいて、女性陣が「男の外見」について話題にし始めた。

 

男性陣にある程度気を遣って、褒め言葉を言ってくれたりもするのだが

「身長」の話になったときには閉口してしまった。

 

何度か記事に書いたこともあるが、僕は身長が低い。165センチ前後ぐらいだ。

 

「恋人は178センチはあってほしい」

「165以下の人ってちょっと可哀想」

みたいな話が出てきて、「気にしまい」とは思えど心のザワザワを抑えることができなかった。

 

勉強とか仕事は努力すればなんとかなる可能性があるけど、身長は努力したところでどうにかなるものではない。

どうにもならないことで「あーだこーだ」言われるのは、悔しいやら悲しいやらでやりきれなくなる。

 

こんなことは気にしなければいいだけの話だし、「これも個性だ」と受け入れてむしろメリットに変えてしまうぐらいにすればいいのはわかっているが

疲れているときはそんな余裕をもてない。

 

 

さっきの飲み会に限ったことではないが、人とコミュニケーションしていると

どうでもいいことがつい気になってしまって疲弊する。

 

敏感すぎるだけじゃなくて、プライドが高く完璧主義の傾向もあるからこんなに細々と考えてしまうのだろう。

 

今日は「頼んでもいないのに話しかけてくる電気屋の店員」や、「薬局で若い女性にハイテンションで絡むおじさん」にダメージをくらった。

 

不自然なこと、フェアじゃないことがなんだか許せない。

 

ストレングスファインダーで1位の資質が「調和性」というのは、こういう考えを指しているのかもしれない。

そして2位が「内省」だから、不自然なシーンに出くわすと、とめどなく思考があふれてきて疲れてくる。これが僕のいつものパターンだ。

 

 

結局なにが言いたいのかわからなくなってきたけども、どうにかして「週3・1日5時間」とか「ずっと家で仕事できる」とかの働き方を模索したほうが良さそうだ。

 

もしかしたら「週5フルタイム」も慣れでなんとかなるのかもしれないけど、ゲームオーバーの可能性がけっこう高い気がするんだよな。

 

それか筋トレとかマインドフルネスとかで疲れにくい心身を手に入れればなんとかなるのか。

 

ただ、とにかく今はとても疲れているから、「休む」ことが最善策に思える。

 

こうやってブログを書いたのも、モヤモヤを吐き出して少しでも心を癒したいと思ったからだ。

 

 

生きるのって難しいな。

でも、死にたいとかはいっさい思わない。むしろ生きることに執着しているぐらいだ。

 

先月おばあちゃんが亡くなって葬儀に出ているときにも色々なことを考えていた。

 

死んでしまったら身体も思考も精神も意識も全てがなくなるのだから、何十年生きたところで「死ぬ間際の後悔の度合い」が変わるだけで、いつ死んでも同じなように思える。

 

でも、生きている今、死ぬのは怖い。

命と比べれば、金もプライドもコンプレックスも何もかもちっぽけなものだ。

 

しかしだからと言って、命以外なにも満足に持っているものがなくて「ただ生きているだけ」という状態には耐えられないだろう。

 

ゆえに、僕はどう生きるべきなのか。よくわからない。

 

 

ところで『君たちはどう生きるか』という本が巷で流行しているそうだが、案外多くの日本人が僕と同じようなことを考えているのかもしれない。

 

モノも情報もサービスも溢れんばかりにある今、何がなんだか分からなくなってしまってる人が大半なのではないだろうか。

 

例えばインターネットは人に多くのメリットをもたらしたのかもしれないけど、同時に大きな負の側面も抱えている。

 

何か不祥事を起こせばネットで拡散され袋叩きにあい、しかもその黒歴史が一生残ることになる。

 

他にも、これまではマニアックな人が専門書で確かめていたような統計データを大半の人が知るようになっている。

例えばさっきの身長の話にしても、「平均身長が171cmであること」を多くの人が知っているから、「165センチは小さい」という認識が人々の間に生まれる。

これについては大きなメリットもあるけどね。

 

 

久々にブログを書いたから、話があっちこっちに飛んでしまって意味のわからないものになってしまった。

まあ自己満足が目的のブログだからそれでもいいか。

 

ここらへんで終わります。

「優しさ」と自己保身

 

前回書いた記事から2週間がたった。

 

あれから結局インターンを休み、3日間休養をとった。

そうしたら徐々に前向きな考えに変わり、めでたく1つ契約を取れた。

 

やはり結果を出す上でも、休むことは大事だ。

 

 

今日は休日だがオフィスに出勤して社長と話していた。

 

社長は歯に衣着せぬ物言いをよくするが、

それは嫌われ役を買ってでも相手に必要なことを伝えようとしているのだと

最近になって気づいた。

 

 

僕は今まで「人を叱る」ことに対して嫌悪感を抱いていた。

 

「自分の人生もままならないのに、どうして人様にそんなに偉そうに言えるのか」

「人にはそれぞれ事情があるんだから、頭ごなしに叱るんじゃなくて

 相手を尊重すべきではないのか」

 

という違和感が僕の中にあって、

他人にズケズケと言う人を生理的に受けつけなかった。

 

 

でも相手が倫理的におかしい言動をしていたり

自分自身のことを蔑ろにしていたりしているのに何も言わないのは、

相手を尊重するというよりも

「嫌われたくない」という自己保身の気持ちなのかもしれない。

 

これまでの僕は「それおかしくないか?」と内心思っても

波風を立てるのが嫌で「すごいね」とか「え〜」などといって

その場をやり過ごしていた。

 

「相手を尊重する」というキレイゴトで

自己保身する自分をごまかしていたのだ。

 

 

とはいえ、なんでもかんでも強く言えばいいってもんじゃない。

 

相手の言動に「ん?」と思ったら

「へ〜そうなんだ」で終わらずに詳しく聞いてみる。

 

それで本当におかしな考え方をしているのなら

嫌われるのを覚悟でビシッと言う。

 

そうじゃないなら「いつでも力になるよ」と相手に寄り添う。

 

 

そんな風に、自己保身の気持ちからじゃなくて

真に相手のためを思って行動できる人間になりたい。

 

「成長」は都合の良い言葉だ

 

インターンでよく社長に言われる「成長」というワード。

 

教育系の会社だからその言葉が使われるのは当然なんだけど。

 

なんだか違和感を感じる。

 

「頑張れば成長できるぞ」は雇用者からすると

従業員に無理させるのに体の良い言葉だ。

 

 

僕も今までは自己啓発やら筋トレやら瞑想やら

自分を「成長」させるために様々なことにトライしてきた。

 

しかし「もっと成長しないといけない」という考え方は

今の自分を「否定すること」に繋がっている。

 

「ダメだ。ダメだ」と自分に声をかけ続けた結果、

「もうどうでもいいや」と全てを投げ出したくなってきた。

 

なんだか社会全体が「成長」に囚われた狂信的な宗教団体に見えてきた。

僕の周りにそういう人が集まってるだけかもしれないけど。

 

 

本当はもっと、肩肘はらずにアホ丸出しで生きたい。

 

僕は「正しさ」よりも「楽しさ」「心地よさ」を重視したい。

 

お互いに「アホでもドジでもええやん。楽しくやろうよ」

という空気感で仕事できたらいいな。

 

まあ僕は社会を知らない若造だから、こんなのは甘い考えかもしれんけど。

 

 

こんなこと書いてると、明日ほんとに出勤したくなくなってきた(笑)

 

このままだとニートまっしぐらかも。