『罪と罰』を読んで感じたこと

 

ダラダラした日常の中でも、少しでも進歩したいと思い

2年前に購入したドストエフスキーの『罪と罰』を読了した。

 

工藤精一郎の訳で読んだが、文章にやたら勢いがあって面白い。

 

とにかく「!」がたくさん出てくる。

なんだかミュージカルの台本を読まされている感覚。

 

 

罪と罰』は哲学の題材になるほど示唆に富んだ内容なのだが

学のない僕では深いところまで読み取ることはできなかった。

 

これから他の人の考察を読んで理解を深めようと思うが

せっかくなので自分が読んで素直に感じたことを書き残しておきたい。

 

ちなみにネタバレとかは一切気にせずに書くのでご注意ください。

 

 

まず『罪と罰』というタイトルにあるように物語の中心は

主人公ラスコーリニコフが犯す殺人という「罪」と

その罪に対して科せられる「罰」にある。

 

主人公は自身が考える「ある理論」の正しさを証明するために

人を殺してしまう。(金銭的事情や家族のため、心的な病によるものもある)

 

しかしその殺人に対して、苦悩し、逃げ惑い、自殺を考えるが

ソーニャという愛する存在と出会ったことで最終的に救われる。

 

 

僕の足りない頭で考えると

「結局は人間に最も必要なものは愛なんだな」

というありきたりな結論になった。

 

約1200ページも読んでこれだけしか自分の中に残らないのかと思うと虚しくもなるが

それでもこの絶望に包まれた世界観を追体験できたことはよかったと思う。

 

人生には嫌なことや苦しいこともたくさんあるけど

この世界の人々の苦悩を考えればそんなことはちっぽけに思えてくる。

 

絶望に満ちた話なのに、読んだあとはとても爽快な気分で

生きることに対する勇気がわいてきた。

 

そして自分もいつか本当の愛をつかみ取りたいと思う。

 

 

あと、なぜだかわからないが心に残った言葉がある。

 

ポルフィーリーという予審判事(主人公の罪を暴く敵役)が

ラスコーリニコフに対して言った

『苦悩には思想がある』

という言葉。

 

「自分が悩んでいることの中には何らかの思想がある」

もしくは

「悩み続けたその果てに思想が形成され自分の糧となる」

 

という意味ではないかと捉えている。

 

日頃から悩みの耐えない僕にとっては、

悩むことにも意味があり、先に繋がっているのだと思うと

気が楽になった。

 

 

以上のように、あまり体系化して考察することはできなかったが

罪と罰』の世界観やストーリーは自分の中に長く残り続けるだろう。

 

今はまだわからないが、とても意味のある読書体験だったと思う。

 

社会不適合者

 

今日は塾講とインターンの面接を受けてきた。

 

塾講の方は塾長と軽く挨拶するぐらいで終わった。

 

問題はインターンの方。

 

自分のコミュ障っぷりが見事に発揮されてしまった。

 

 

オフィスに着くと1対1形式かと思いきや、ぞろぞろと3名の学生が登場した。

 

最初は明るい感じの女性。

すごいフレンドリーに話しかけてくる。

 

僕はなぜかテンションが急降下していき

ぼそぼそと対応するだけだった。

 

 

そのあとは男子学生が登場。

地味そうだが声がたかくてコミュ力はあります的な人。

 

その2人の会話が、がぜん盛り上がっていて

自分のコミュ力のなさを自覚した。

 

なんでそんなにナチュラルに次の言葉が出てくるんだろう。

 

少し救いだったのが最後にきた女子学生も

僕と同じような人種だったことだ。

 

 

そして30分の筆記のあと面接が始まった。

 

僕はなぜか面接は得意なので、内容はともかく

あたかもコミュ力ありそうな人のような話し方ができた。

 

昔からこういうゲームみたいな設定ありきの状況は得意だ。

 

「ゲームなんだからいいでしょ」という暗黙の了解があるから

変に気を遣わなくてすむ。

 

フリーな状況だと、下手するとグサリと刺さる一言をいわれて

すごく傷つくみたいなことがあるから怖い。

 

 

それで面接が終わって帰り際。

 

4人で乗ったエレベーターの中で明るい2人がわっと話し出す。

 

「僕は意外とかっちりした面接だった」と感じたことに共感してもらいたくて

みんなに「今日はスーツの方が良かったかもですね」と言った。

(僕と女子学生は私服で、男子学生がスーツ。面接前に「うわー私服で来ればよかった」と言っていた)

 

そしたら突き放すような口調で

「いやそんなん気にせんでええやろ」

と言われた。

 

なによりこたえたのが、横にいた明るい女子学生が

誰がみてもわかるぐらいの引きつった愛想笑いで

「ははは...そうですねえ。。」

と言ったことだ。

 

そして僕は「僕こっちなんで。お疲れ様です。」

とお決まりのセリフを残してそそくさと立ち去った。

 

 

こんな感じで冷静に考えたらなんてことないことなのに

なぜか僕はへこんでしまっている。

 

今朝は最高に明るい気分だったのが嘘のようだ。

 

 

数年前までは多少イヤなことがあっても

そこまでへこまなかったような気がする。

 

なのに最近の僕はことあるごとに落ち込んで

こうして深夜にブログを書いたりしてる。

 

おそらく社会人になったら、もっともっと理不尽なことが起きたり

ひどいことを言われたりするのだろう。

 

それを思うと、社会でうまくやっていける自信がない。

 

 

僕以外にもナイーブな人はいると思うけど

その人たちは社会の荒波をどう乗り越えてきたのだろう。

 

あるいはすでに社会からドロップアウトしてしまったのかもしれない。

 

 

いつから自分はこんなにめんどくさい人間になってしまったのか。

 

 

宙ぶらりん

 

かなり久々の更新になってしまった。

 

何か書かないとモヤモヤした気持ちが晴れないので

思うままに書いてみようとおもう。

 

 

8月はとても怠惰な日々を過ごした。

前半の方はあまり記憶がない。

 

お金はいつもより節約できたと思うが、

フェスに行ってしまったのでけっこう飛んでしまった。

 

後半にバイトを始めてみたが

単純作業に耐えられなくて1週間でやめた。

やはり僕は我慢ができないみたいだ。

 

派遣のバイトを3時間だけやってみたが

臭くて汚くて掃き溜めのような場をかいまみて

「ここにだけは来てはいけない」と悟った。

 

 

最近モヤモヤしてる一番の理由は

「これさえやれば前に進める」という確かな目標が

見えなくなってしまってるからだろう。

 

今日も有給のインターンの面接に行ってきたが

質問されてもあやふやな回答しかできなかった。

 

自分でも「ブレブレだな」と思いながら話していた。

 

 

できれば音楽やアニメや本など

自分が好きなものに関わった仕事をしてみたいけど

多くの大人は「それはおすすめしない」と言う。

 

「趣味は趣味のまま終わらせといたほうがいい」

という理屈は想像でしかないけどなんとなくわかる。

 

ずっと好きだった女の子と付き合えたはいいけど

嫌なところがたくさん見えてきて

幻滅してしまったみたいなものだろうか。

 

 

僕が幼少期から好きだったことといえば

「歌うこと」だろう。

 

お風呂場でもずっと一人で熱唱していた。

 

でも、下手でもないけどプロになれるほど上手くない。

 

友達とカラオケに行くと自分のレベルはなんとなくわかってしまう。

 

クラスメイトレベルに負けるようでは

到底その道では食っていけないだろう。

 

 

じゃあ自分が他の人よりも段違いに優れているものはなんなのか

考えてみても何も思いつかない。

 

人よりちょっと秀でた偏差値60ぐらいのものは

いくつか思い当たるけどそんな程度じゃ勝負にならないし。

 

 

とりあえず今は教育に興味があるから

手始めに塾のバイトでも始めてみようと思っている。

 

こうやって考えてても何も進まないだろうから

とにかく動いてみて、そしたら何か希望がみえてくるかもしれない。