彼女ができた

 

2年ぶりに彼女ができた。

 

とても純粋で一緒にいて楽しい子だ。

 

 

やはり彼女がいると精神的に安定する気がする。

 

僕の中にあった欠乏感が埋まって

恋愛以外でも「これからもっと楽しいことがありそうだ」

とワクワクしている。

 

とはいえまだ付き合ってから1週間も経っていないのだから

これから徐々に関係を築いていかないといけない。

 

 

僕はまだ「深い愛情」というものを他者に抱いたことがない。

 

誰かを愛するようになれば

僕の人生はもっと深みを増すだろう。

 

「自分」という存在が自分だけのものではなくなって

相手にとってもかけがえのないものになる。

 

それはとても素晴らしいことだと思うし、

もっと色んなことを学んで

その子にプラスを与えられるような存在になりたい。

 

 

ただ、僕の中にあるのはキレイな感情ばかりではない。

 

こんなことは決して本人には言えないけど

彼女のことが「性的にどストライクか」というと

そうではないような気がする。

 

「超可愛い」ではなく「普通に可愛い」という感じ。

 

相性や中身を全く考慮しないならば

大学や街中にいる女の子の方が魅力的だと感じることがある。

 

 

ブログでは良い子ちゃんぶったことばかり書いてるけど

僕は昔から性欲が強くて

高校生のころは会話の8割がエロ話だったし

大学生になってからは風俗にハマってしまったときもあった。

 

風俗ですごくタイプの子が出てきたら

やっぱりものすごく興奮する。

 

ただし、そこには「愛」はない。

 

お金と身体の交換という「ビジネス」である。

 

 

こんなにセックスのことばかりを考えてしまう自分は

低俗であることに間違いはないと思うが

自分の思っていることは正直に書いておきたい。

 

 

「関係性」を無視するなら、

自分がより「可愛い」と思う異性を抱いた方が

気持ちいいセックスになるだろう。

 

風俗やワンナイトラブやセフレなどは

このような論理になる。

 

 

しかし

「付き合っている彼女とのセックス」

は毛色が違うはずだ。

 

お互いの愛情が親和することで

おそらく僕が想像できないぐらいの

気持ち良さになるのではないだろうか。

 

 

「愛し合っている同士のセックスは

 どれぐらい気持ちいいのか」

 

ということをそういえば友人に聞いたことがなかった。

 

「俺たちモテないよな〜」

と傷の舐め合いばかりしていたからだ。

 

 

ともかく、愛すべき存在ができたことで

これからの自分は大きく変わっていくだろう。

 

さっき書いたような自分のゲスな部分も直視しながら

健全な関係を築いていけたらなと思う。

 

 

完璧主義はコストがかかる

 

日々生活していてつくづく思うのが

完璧主義はほんとに時間もお金も無駄にしてしまう。

 

 

完璧を期そうとすればするほど

どんどん労力がかかっていって

結果、ものすごく中途半端になったりする。

 

例えば本を読むときに、

1回でじっくり読むよりもザッと3回ぐらい読んだほうが

読むスピードも理解度も高くなることはわかっているのに

どうしても読み飛ばすことができない。

 

そしてどんどん「積ん読」されていく。

 

 

こうやって文章を書いているときも

論理的におかしくならないように

何度も消してはタイプしてを繰り返している。

 

そして、

「もういいや、めんどくさい」

と下書きのまま放置することになってしまう。

 

事実、下書きにしたままの記事が5つぐらいある。

 

 

僕がこのブログを書く目的を改めて考えると

「日々の生活や学びや考えたことを残しておくこと」だ。

 

そして残した記録や考えを

再び、考えるための材料にすること。

 

 

また、日記などではなくブログに書くのは

モビリティが高いから。

オンライン環境さえあればどこでも書いて、閲覧できる。

 

あとは、僕の記事を読んで

意見に共感してくれる人がいることがわかれば

それが学び、やる気に繋がる。

 

 

自分がブログを書く目的を考えれば

それほど体裁は気にしなくてもいいのかもしれない。

 

もっとトピックも自由に扱って

たまに論理がめちゃくちゃなことがあってもいい。

 

別にアフィリエイトしたり、ファンを集める気もないし。

 

 

でも、何かしら記事に反応してくれる方がいたら

それはとてもありがたいです。

 

僕には知らないこと、考えが足りないことが

まだまだたくさんあるから

指摘してもらえた方が学びが深くなるので。

 

 

そういうわけで、

細かいことにこだわってしまう性格は直せないけど

少しでも意識的に「適当にやる」ようにしたい。

 

考えるほどによくわからなくなる

 

前回の記事を書いたときを思い返すと

ただ単に気分が高揚していただけだった。

 

次の日の朝になると

「なんであんな極端な考え方になってしまったんだ」

と後悔がはじまった。

 

 

人間には「ホメオスタシス」という恒常性維持機能があって

一時的に気分が高揚したりしても

また平常運転に戻るようになっている。

 

僕だけかもしれないが、

思考の中身は気分に大きく左右されるので

気分と同じく、考えも日によって変わる。

 

幸せな気分なら前向きな考えが浮かぶし

疲れてるときは後ろ向きな考えになる。

 

 

ニーチェ

「寝る前に反省などするのは愚かだ」

と言っていた。

 

なぜなら疲れている状態で考える内容は

どうせ後ろ向きにしかならないから。

 

 

気分と考えの話はともかくとして

自分の中でなかなか答えが出ないのが

 

様々な物事に対して

「いったいどこまで考えるべきなのか」

ということ。

 

 

一般論としては「賢い方が良い」とされている。

 

例えば東大卒の平均年収はやはりダントツで高いし

賢い方が金銭的には豊かになりやすい。

 

僕も「賢い方がいいのだな」と

幼い頃からなんとなく感じていて

それなりに勉強を頑張った。

 

大学に入ってからもたくさんの本を読んで

賢くなろうとした。

 

 

ただ、ふと疑問に思う。

 

高い知性や膨大な知識をもった人間の方が

本当に「良い」のか?幸せになれるのか?

 

 

アルジャーノンに花束を

の主人公であるチャーリーは手術により

IQ200以上の知性を手にいれた。

 

あらゆる書物を読破し、高名な学者がバカに思えるほど

体系的な知識を獲得した。

 

しかし「賢くなれば幸せになれるはず」という期待とは裏腹に、

知りたくないことがわかってしまったり

仲間から疎まれたりして

チャーリーは幸福から遠ざかっていく。

 

 

芥川龍之介もものすごい賢人だったが

自殺している。

 

調べたところによると病や家族の問題があったようだが

遺書には「将来に対するただぼんやりとした不安」とある。

 

おそらく常人にはない複雑すぎる思考の産物として

その「ぼんやりとした不安」が生まれたのだろう。

 

 

僕自身が他の人よりも「賢い」かと言われたら

それなりに自信はある。

 

客観的に数値化するべきではないけど

偏差値でいえば60ぐらいかなという印象。

 

70以上の天才レベルではないことはわかる。

 

人よりも行動力がない分

情報収集したり思考する時間が長かったので

それなりの知性が備わってると思いたい。

 

 

ただ、僕が自信をもっているのは

中途半端な知性ではない。

 

「良い意志を持って生きたい」

という理性がよく働くことだ。

 

「良い意志」とはいったい何なのか

がまだ定まっていないからとてもぼんやりしているけど

「純粋で、美しい生き方をしたい」

という欲求があるのはわかってきた。

 

 

ただ、ふとしたことで苛立ったりすると

自分のプライドの高さを自覚して

 

「下品な人間に成り下がるのが嫌だ」

「他人に見下されたくない」

というのが本音なのかもしれないとも思う。

 

昨日、定期券を購入するときに

後ろの列に並んでいた小学生の女の子に

「早くしろ」と机をトントン叩かれて

ものすごく腹が立ってしまった。

 

「小学生はまだエゴの塊で

社会性を身につけていないからだ」

 

と無理やり抽象化して自分を落ち着かせようとしたが

腹の虫がおさまるのに時間がかかった。

 

小学生の女の子に

「ちょっと待てよ!」と怒鳴るわけにもいかず

ある種、理不尽な状況だった。

 

 

「自分が早く切符を買いたいからって

赤の他人をあからさまにせかすのは

自分勝手すぎる」

 

という理由で自分は怒っていたのかと思ったら

冷静に考えみれば

自分がなめられたことに対して

腹が立ったのだと気づいた。

 

 

つまり僕の内面なんてそんなものだ。

 

まだまだ自分を良くみせようと

必死になっている。

 

根本にあるのは「良い意志」などではなくて

「強すぎる承認欲求」なのかもしれない。

 

 

・・・と、まあこんな感じで

またどうどう巡りになってしまった。

 

全ての思考が繋がって、

自分や世界に対する認識がクリアになるのは

いつになるだろうか。

 

おこがましいけど

名高い哲学者たちもこんなふうに

考えては悩んでを繰り返していたのかな。

 

 

昨日家庭教師をしているときに思ったが

僕が人を叱れないのは

「これがよくてこれがダメだ」

という結論がなかなか定まらないからだろう。

 

他人のいう

「君の気持ちはよくわかった」とか

「このままじゃ君はダメになる」とかって

ほんとにわかって言ってるんかいな。

 

コミュニケーションにおいては

ある程度の決めつけは重要なのかもしれない。

 

 

ダラダラと書きましたがこの辺で締めます。