なぜ他人に親切にしたくなるのか

 

先日、NHKの説明会の帰りに起きたこと。

 

地下鉄に車椅子の方が乗ってきた。

 

僕がいたのは車椅子用の手すり付近で、

ちょうど手すりのところには女性が立っていた。

 

車椅子の方は女性がいるので手すりが掴めず

扉付近の手すりに頑張って手を伸ばしてつかまっていた。

 

ちょっと状況がわかりにくいけど

要は女性が手すりに気づかず立っていて

車椅子の方が困っているということだ。

 

 

僕はその様子をみて、逡巡した。

 

女性にそこをどいてもらうように声をかけるべきか。

 

でも、、、

 

 

「でも」・・・なんだろう。

 

このとき僕は何を考えて迷っていたのか。

 

そもそもなぜ第三者である僕が、

この出来事に干渉しようと思ったのか。

 

この逡巡の中に、

「親切心」の構造が隠れている気がする。

 

 

僕が考えていたことを列挙してみると

 

・車椅子の人が乗ってきたのに手すりに気づかないなんて

 無神経な人だな(女性に対して)

 

・周りの人は気づいてないのか?

 気づいてたのだとしたら声をかけるべきじゃないのか

 

・ここで声をかけても

 車椅子の人に変に気を遣わせたり

 周りの注目を集めてしまったりして

 逆に迷惑になるかもしれない

 

・女性や周りの人に

 「良い人ぶりやがって」

 と思われるのは嫌だ

 

・僕は他人に親切にできるほど

 良い人間なのだろうか

 ただの「メサイヤコンプレックス」なんじゃないか

 

・でも社会に対して

 「優しくない」「汚い」

 という不満を持っておきながら

 保身のために目の前の出来事から目をそらすのはずるくないか

 

こんなことを考えていたように思う。

 

別に何かのアピールじゃなくて

僕は普段から無駄に考えすぎてしまう

ということが言いたい。

 

 

僕を迷わせた大きな原因は

アイデンティティ」(自我同一性)

にあるのではないだろうか。

 

目の前で起こったことにどう反応するかは

「自分はどんな人間なのか」

というフィルターを通して決定されるのではないか。

 

 

『影響力の武器』などの心理学系の本にも

「一貫性の原理」というのが紹介されていて

人は自身の言動、態度、信念などに対して一貫したものにしたい

という心理が働くらしい。

 

 

こう考えると、

人に親切にしようとする人間は

「今までの自分は親切なことをしてきた」

という行動面での一致

 

あるいは

「親切なことをする自分でありたい」

という態度・信念の一致

を求めているのではないだろうか。

 

 

宗教を信仰することで、人が利他的になるのは

「人に親切にすべき」という信念が根付いて

一貫性の原理が働くからだろう。

 

 

書いていて気づいたけど

アイデンティティは一貫性の原理の中に

内包される概念なのかな。

 

発言、行動面での一致

アイデンティティ

 

ちょっとよくわからなくなってきた。

 

 

結論として

僕はこれからどう考えてどう行動するのかというと

やはり「他人に優しくできる人間」で在りたいと思うし

他人に親切にしたい。

 

僕が憧れる人物は

実在の人でも創作の人でも

他人のために一生懸命になれる人だ。

 

UVERworldTAKUYA∞フルーツバスケット本田透

なんかにとても憧れる。

 

自分が良い風にその人を切り取ってみてるだけかもしれないけど。

 

でも、そういう人の在り方は

とても美しいと思う。

 

とにかく自分の利益や保身ばかりを考えるような

汚い人間にはなりたくない。

 

 

別に僕は良い人間じゃないし

とても利己的なことはこれまでの自分の言動を振り返れば

イヤというほどわかる。

 

それでも、ありのままの自分は良い人間じゃないかもしれないけど

「良い人間」になりたい、そう在ろうと

本能や欲望にあらがうことが理性であり

立派な人間への道なんじゃないだろうか。

 

 

すごくキレイゴトを言ってしまった気がするけど

今の自分の考えはこんな感じということで残しておきたい。

 

 

補足:

 

僕は地下鉄の件で結局どうしたかというと

女性にできるだけソフトな口調で声をかけた。

 

「すみません、車椅子の方の手すりがあるので

 どいた方がいいんじゃないでしょうか」

 

それを聞いた車椅子の方が、ギョッとした顔で僕をみて

「あ、大丈夫ですよ!」

と僕と女性に慌てた様子で説明されていた。

 

それで僕は恥ずかしくなってしまって

「あ、すみません」

とその場から離れた。

 

「おせっかいだったのかもしれないな・・・」

とその時は後悔していた。

 

そして電車を降りたときにふいに肩を叩かれた。

 

振り返ると車椅子の方で

「ありがとうございました」

と言ってくれた。

 

その一言でなんだか救われた。

 

変に注目を集めてしまって

恥ずかしい思いをさせてしまったかもしれないけど

「世の中には親切にしてくれる人間もいるんだ」

とその人が感じる経験になってくれたら嬉しいと思う。

 

 

とはいえ、この行動が本当に正しかったのかはわからないし

そもそもなぜ僕はこういう行動を起こそうと思ったのか

が気になってこうして記事にしてみた。

 

最近僕が思うのは、

社会や組織という1人では扱いきれない大きなものに不満を持つのなら

まずは自分自身が目の前の小さな場面で

行動を起こすべきなんじゃないのかということ。

 

例えば環境問題を憂うのなら

その影響はわずかだとしても

自分の家だけはエアコンをつけないようにする

車に極力乗らないようにするとか。

 

僕が尊敬する人物は

大きなことを成し遂げたいと思う前に

目の前の人たちを大切にすべきだと言っている。

 

全くその通りだと思う。