死ぬ瞬間のことを考えてみた

明日、東京に最終面接を受けに行く。

 

6月末から自己紹介用のプレゼン資料を準備していて、完璧主義的な僕は

「どのレベルまで作り込めばいいんだ。もう逃げたい」と苦悶しながらもなんとか完成させることができた。

 

「自分とはどんな人間か」を伝えようと思った時に考えたことは
人生で何を大切にしたいのか、誰のため何のために生きるのかということだ。

 

このブログでも何度か書いたと思うが、やはりたどり着いた答えは

誰かを愛したい、幸せにしたいということだった。

 

人生には「死」という終わりが必ずあって、その瞬間に何を思いたいか。

そう考えた時に、僕は人生で最も愛した人の顔を思い浮かべながら逝きたいと思った。

 

でもまだ家族以外で「真に愛した」と言える人が僕にはいない。真実の愛を見つける日がいつになるかは分からないし、一生をかけても手に入らないかもしれない。それはとても奇跡に近いことだろうから。

 

それならば、明日死んでしまうかもしれないこの命を、少しでも誰かを幸せにするために使いたいと思う。まさに天に召されようとする時に、走馬灯のように自分と関わってくれた人の笑顔が浮かんだらいいな。

 

少し前までは「どうせ死んで何もかも消えてしまうのだから、何をしたって意味がない」と考えていたのに、こう思えるようになったのはどうしてだろう。

 

意味がないとは言え、どうしても死ぬことは怖いと思ってしまう。それは前も今も同じだ。ただ、「死」が単なる終わりではなく、生涯の完成であり、次の世代へのバトンパスになるのだと考えればそれほど怖くないのかもしれないなと思った。

 

逆に最も恐ろしいのは、誰かをひどく傷つけ悲しませてしまったという罪の意識に苛まれながら逝くことだ。自分は生きているだけで誰かに迷惑をかけてしまう、自分が死ぬことが最後に残された贖罪だと思いながら死ぬのも、ある意味では納得感があるのかもしれないけど、なんだかその終わり方は悲しい。

 

あの世があるのかは分からない。あると信じたいのは、魂という名の自意識が存続することへの憧れからくるものだろう。果たしてその永遠に意味はあるのだろうか。

 

なんだかかっこつけた感じになってしまったが、深く考えすぎずに、愛と感謝と貢献を大切にしながら生きていきたい。例のごとくめっちゃ沈むこともあるけど、何日か経てば自然と自分の中に希望が芽生えてくることももう分かったから、とにかく生き抜くことを心に誓う。

会話がしんどいから生きづらい

内向的な人間は生きづらい。世の中に適応できないから内向的になったのか、内向的だから適応できないのかどっちなのか知らないが、生きづらいことに違いない。

 

僕の場合は、人と話すと疲れてしまうこと。無表情でボソボソと話しても良いのならマシだけど、取り繕った笑顔で声も相手に聞こえるように張り上げないといけない。

昔から通らない声だから、例えばお店で注文する時とかも大きな声を出さないといけないのがしんどい。調節を間違えて、変に大きすぎる声を出したら恥ずかしいし、それもあって余計に疲れる。

 

都会に住んでいると沢山の人たちの会話を見かける。みんな笑顔で楽しそう。本音ばかり話せるわけじゃないのに、疲れないのだろうか。

僕も本当に心を許した友達となら楽しく会話できるけど、それでもエネルギーを消耗している感がある。

 

僕の中で「会話」とは「細心の注意を払い、ベストな回答を探し続けるゲーム」のようなもので、「この質問にはどう切り返せばいい?これを言うのはNG・・・」みたいに無数の選択肢がずっと脳内でぐるぐるしている。

感じるままに、思いついたままに話せればいいんだけど、それだと自然な会話をできる気がしないし、そんなに無神経になれない。

 

僕は哲学的な考えや思考を刺激するような情報が好きだから、俗に言う「クソ真面目な話」ばかりの方がむしろ楽しめるけど、たいていの人はそうじゃないから、他愛のない話題を選んで話すしかない。

 

別にそんなの気にせずに好きなように話せばいいんだけど、相手に苦痛を与えるのもそれはそれで耐えられない。相手の感情に引きづられてしまうから、相手が楽しくなさそうだと自分も楽しくなくなってしまうからだ。だから自分が心地よくなるために、相手が好きそうな話題とか言ってほしそうなことを言うようにしてる。つまり八方美人。

 

こんなしんどい会話から抜け出すにはどうしたらいいだろう。1つは相手のことなんてお構いなしに思いついたままに話す。それか「クールキャラ」を装って、ボソボソと省エネで話すとか。

きっとできないんだろうな自分は。もう主人に擦り寄る犬みたいな話し方が染み付いてしまってるから。

 

人と関わらなければ生きていけない世の中で、人と接するのがしんどかったら、そら生きるのに疲れるだろう。じゃあ人と関わらなければいいじゃんと言われそうだが、それはそれで寂しかったりする。我ながら超めんどくさい奴だ。

 

これから社会人になって、もっとたくさんの人と話すようになったら、だんだん慣れてきたり会話スキルが向上したりして疲れなくなるんだろうか。まあそんときにはすでにジジイになってる可能性が高い。

 

別に僕はすごく貧乏な家庭で育ったとか、親に虐待されたとか、生活に支障をきたすほどの病気があるとかそんなんじゃない。人より少し身長が低かったりするけど、それが大きなハンデというわけでもない。

僕が他人に「生きづらいんです」なんて言ったら、「いやお前より辛い思いをしてきてる人はたくさんいるよ」と言われるに違いない。

 

ただ僕が思うのは、「生きづらさ」や「幸福度」なんてものは本人にしか分からないもので、貧乏だから不幸だとか、お金持ちだから幸福だとか側からみた状況だけでは判断できないということだ。もしかしたら美女をはべらせた大金持ちよりも、ホームレスの方が幸せを感じながら生きているかもしれない。

 

なんだか何が言いたいのかよく分からなくなってきた。毎度のことだけど。

「僕は生きづらさを感じてるのだ」と匿名ブログで表明して、いったい僕は何を得ようとしているのか。

まあ会話の何がしんどいのか具体化できただけでも意味があったと考えよう。

自分を立て直してくれるもの

最近どうにも活力が湧いてこない。

 

午前中までにやらないといけない就活の課題があったが、もう投げ出してしまえと思って何もしないまま昼過ぎになってしまった。

 

このままではダメになる一方だと思い、Netflixで「心温まる」カテゴリの中から
『グットウィルハンティング』という映画を観ることにした。

結果的に自分の中にあった抑圧的な感情が消え、本質的な視点を取り戻すことができた。

 

明らかに90年代につくられた古めかしい映像に序盤で観るのをやめようかと思ったが、清掃係の主人公がMITの学生でも解けなかった物理学の難問を解いてしまうところから引き込まれた。

 

アインシュタイン並みの天才的な頭脳を持ちながらスラムでヤンキー仲間と過ごす主人公を、MITの有名教授が見出す。しかし過去に虐待を受け、家族が一人もいないという境遇のせいで深く傷ついている。それをある心理学者が心を開かせていくという物語。

 

僕は感想を語るのが昔からとても苦手だから、作品の魅力をうまく伝えることはできないと思う。

映画や音楽や本は自分にとって「心の処方箋」のようなもので、感情的に捉えているから言葉や論理に落とし込んで説明するのが難しい。シーンやセリフのディテールも詳しく覚えていないし、それを自分の言葉で正確に描写できない。

 

人に語ることはできないけど、こういう素敵な映画を観終わった後には、感情が整理され、世界を新鮮で本質的な目でみることができるようになる。

 

一方で自分の目を汚してしまうものもある。例えばTwitterなんかがそうだ。

タイムラインを眺めていると、汚い言葉で罵り合っていたり、自分にはないキラキラした生活がひけらかされていたりするから。

 

心の通じ合った人との交流も、自分の目を良い方向に開いてくれる。

真に愛せる人と共に暮らせたなら、心は清らかなままでいられるのかもしれない。

 

こうやって文章を書くのも感情の整理の一つ。だから書く内容に脈絡なんてなくていいと思う。いつも一応はタイトルと関連したようなことを書き、キリの良さそうなところで終わっているが、それも別にそうする必要はないのにそうなるのは、僕の完璧主義的な性格の表れなのだろう。

 

最後に自分を立て直してくれるものをまとめておく。

心理描写が丁寧に描かれた映画、ジブリのピアノ音源、親友と居酒屋で語り合う夜、文章を書くこと、爽快に笑える映像、深い呼吸、自然を感じる静かな場所、本に囲まれたダークウッド調の書店、自分に対する心からの賛辞。