会話がしんどいから生きづらい

内向的な人間は生きづらい。世の中に適応できないから内向的になったのか、内向的だから適応できないのかどっちなのか知らないが、生きづらいことに違いない。

 

僕の場合は、人と話すと疲れてしまうこと。無表情でボソボソと話しても良いのならマシだけど、取り繕った笑顔で声も相手に聞こえるように張り上げないといけない。

昔から通らない声だから、例えばお店で注文する時とかも大きな声を出さないといけないのがしんどい。調節を間違えて、変に大きすぎる声を出したら恥ずかしいし、それもあって余計に疲れる。

 

都会に住んでいると沢山の人たちの会話を見かける。みんな笑顔で楽しそう。本音ばかり話せるわけじゃないのに、疲れないのだろうか。

僕も本当に心を許した友達となら楽しく会話できるけど、それでもエネルギーを消耗している感がある。

 

僕の中で「会話」とは「細心の注意を払い、ベストな回答を探し続けるゲーム」のようなもので、「この質問にはどう切り返せばいい?これを言うのはNG・・・」みたいに無数の選択肢がずっと脳内でぐるぐるしている。

感じるままに、思いついたままに話せればいいんだけど、それだと自然な会話をできる気がしないし、そんなに無神経になれない。

 

僕は哲学的な考えや思考を刺激するような情報が好きだから、俗に言う「クソ真面目な話」ばかりの方がむしろ楽しめるけど、たいていの人はそうじゃないから、他愛のない話題を選んで話すしかない。

 

別にそんなの気にせずに好きなように話せばいいんだけど、相手に苦痛を与えるのもそれはそれで耐えられない。相手の感情に引きづられてしまうから、相手が楽しくなさそうだと自分も楽しくなくなってしまうからだ。だから自分が心地よくなるために、相手が好きそうな話題とか言ってほしそうなことを言うようにしてる。つまり八方美人。

 

こんなしんどい会話から抜け出すにはどうしたらいいだろう。1つは相手のことなんてお構いなしに思いついたままに話す。それか「クールキャラ」を装って、ボソボソと省エネで話すとか。

きっとできないんだろうな自分は。もう主人に擦り寄る犬みたいな話し方が染み付いてしまってるから。

 

人と関わらなければ生きていけない世の中で、人と接するのがしんどかったら、そら生きるのに疲れるだろう。じゃあ人と関わらなければいいじゃんと言われそうだが、それはそれで寂しかったりする。我ながら超めんどくさい奴だ。

 

これから社会人になって、もっとたくさんの人と話すようになったら、だんだん慣れてきたり会話スキルが向上したりして疲れなくなるんだろうか。まあそんときにはすでにジジイになってる可能性が高い。

 

別に僕はすごく貧乏な家庭で育ったとか、親に虐待されたとか、生活に支障をきたすほどの病気があるとかそんなんじゃない。人より少し身長が低かったりするけど、それが大きなハンデというわけでもない。

僕が他人に「生きづらいんです」なんて言ったら、「いやお前より辛い思いをしてきてる人はたくさんいるよ」と言われるに違いない。

 

ただ僕が思うのは、「生きづらさ」や「幸福度」なんてものは本人にしか分からないもので、貧乏だから不幸だとか、お金持ちだから幸福だとか側からみた状況だけでは判断できないということだ。もしかしたら美女をはべらせた大金持ちよりも、ホームレスの方が幸せを感じながら生きているかもしれない。

 

なんだか何が言いたいのかよく分からなくなってきた。毎度のことだけど。

「僕は生きづらさを感じてるのだ」と匿名ブログで表明して、いったい僕は何を得ようとしているのか。

まあ会話の何がしんどいのか具体化できただけでも意味があったと考えよう。

自分を立て直してくれるもの

最近どうにも活力が湧いてこない。

 

午前中までにやらないといけない就活の課題があったが、もう投げ出してしまえと思って何もしないまま昼過ぎになってしまった。

 

このままではダメになる一方だと思い、Netflixで「心温まる」カテゴリの中から
『グットウィルハンティング』という映画を観ることにした。

結果的に自分の中にあった抑圧的な感情が消え、本質的な視点を取り戻すことができた。

 

明らかに90年代につくられた古めかしい映像に序盤で観るのをやめようかと思ったが、清掃係の主人公がMITの学生でも解けなかった物理学の難問を解いてしまうところから引き込まれた。

 

アインシュタイン並みの天才的な頭脳を持ちながらスラムでヤンキー仲間と過ごす主人公を、MITの有名教授が見出す。しかし過去に虐待を受け、家族が一人もいないという境遇のせいで深く傷ついている。それをある心理学者が心を開かせていくという物語。

 

僕は感想を語るのが昔からとても苦手だから、作品の魅力をうまく伝えることはできないと思う。

映画や音楽や本は自分にとって「心の処方箋」のようなもので、感情的に捉えているから言葉や論理に落とし込んで説明するのが難しい。シーンやセリフのディテールも詳しく覚えていないし、それを自分の言葉で正確に描写できない。

 

人に語ることはできないけど、こういう素敵な映画を観終わった後には、感情が整理され、世界を新鮮で本質的な目でみることができるようになる。

 

一方で自分の目を汚してしまうものもある。例えばTwitterなんかがそうだ。

タイムラインを眺めていると、汚い言葉で罵り合っていたり、自分にはないキラキラした生活がひけらかされていたりするから。

 

心の通じ合った人との交流も、自分の目を良い方向に開いてくれる。

真に愛せる人と共に暮らせたなら、心は清らかなままでいられるのかもしれない。

 

こうやって文章を書くのも感情の整理の一つ。だから書く内容に脈絡なんてなくていいと思う。いつも一応はタイトルと関連したようなことを書き、キリの良さそうなところで終わっているが、それも別にそうする必要はないのにそうなるのは、僕の完璧主義的な性格の表れなのだろう。

 

最後に自分を立て直してくれるものをまとめておく。

心理描写が丁寧に描かれた映画、ジブリのピアノ音源、親友と居酒屋で語り合う夜、文章を書くこと、爽快に笑える映像、深い呼吸、自然を感じる静かな場所、本に囲まれたダークウッド調の書店、自分に対する心からの賛辞。

思いつくままに書いてみた

 

もっと思考の枠組みを外せば、面白いことができそうなのになと思う。

 

例えばお金を月に1億円稼ぐことで人生は幸せになるのかというと、そうとは限らない。別に生活できるだけの金さえあれば、金持ちより面白くて充実感のある生き方ができそう。

 

言葉にするのがどうも苦手だから、この感覚を客観的な形に落とし込めないのだけど、見えないものに目を向けることで世界は一変するんだと思う。

今は学生という身分のおかげで、時間に余裕がある。そのうちになんとかして、人生を面白くする方向性を見出しておきたい。

 

就活していて思うのは、生きる道なんて無数にあるし、いくらでも自分なりの生き方を作り出すことができる。

日本でそこそこの中流家庭に生まれたからこそ、こんなことができるのは分かっている。それは幸運なことだ。

 

日本には1億3千万いて、世界には70億人いて、こんだけの人がいるんだから自分1人が及ぼせる影響なんてたかが知れているし、世界を救おうなんて僕が思ったところで大きな力に抗うことはできないだろう。

 

じゃあ社会のどんな問題を解決したいのかとか、誰を救いたいのかとか考えてみるけども正直よく分からない。それに、そもそもヒトサマの人生をどうこうなんて考えること自体、どうなんだろうなと思う。

 

今日はけっこう思いつくままに文章を書いている。自分の思考なんてぜんぜんロジカルじゃないから、支離滅裂になってしまうのは仕方ない。僕は感覚人間だから、論理的に整理して人に伝えるのがとても面倒に感じる。時間をかければある程度はできるけど、なんか型にハマっててつまらない。就活で「1つ目に〜、2つ目に〜」とか話してると我ながら「寒っ!」と思ってしまう。

 

これはロジカルとか関係あるのかわからんけど「意味」は色んな場面で求めている。さっきカフェで久々に会った人がいて、突然の雑談が始まったけど「これなんの時間だ?」という疑問がずっと頭の中でぐるぐるしていた。こういうとこが僕が女の子にモテない要因だろう。

 

幸せとはなんだろう。それは自分をうまく騙すことかもしれない。忙しく仕事したり子供を育てたりすると、「生きる意味」とかそういうものを考えなくて良くなるし、なんだか良い気持ちで時が流れていくんだろうか。

 

今はわりと自由に思考できている状態だなと実感している。これがまた時が経つと焦りとか悩みとかが湧き出てくるのだろう。今はこういう状態ということで、ここに記録しておく。