我慢は美徳じゃない

今日も8時間労働をしてきた。正確には寝坊して7時間半だったけど。

 

10時ー19時という時間帯でいつも働いているのだが、17時を過ぎると急激に集中力が無くなってくる。

仕事内容は「記事の編集作業」で、けっこう頭を使うしずっと画面に向かっているので精神的な負荷が大きい。メンタルはやられないけど、意志力の消耗が激しい仕事だ。

 

ほんとに日本人はこれを毎週5日連続でやっているのかと思うと、とても信じられない。試しに「8時間労働 無理」でググってみると、こんな記事が出てきた。

quit-job-tomorrow.com

 

この方が言うところによると、「8時間」に特に合理的な根拠はないらしい。19世紀末の労働者が「8時間にしろ!」と政府にクレームを入れたからそうなっただけ。

確かに人間の集中力が8時間も持つはずがないことは、僕みたいな若造でも分かる。

 

さらに生産性トップのアイルランド人たちは1日に「6時間半」しか働いてないらしい。僕の集中力が切れるのも6時間後ぐらいなので、自分がヤワ過ぎるわけではないことが分かった。

 

8時間を基準にして「労働基準法」が定められているのだとすれば、法律や政治というものも案外いい加減なものなのかもしれない。国のルール的な方面に疎い僕は、政治や法律はすごく合理的なものだと思い込んでいた。

 

よくよく考えれば未だ非合理なルールが残っているのは当たり前のことだ。なぜなら科学的常識が塗り替えられて現状のルールが「非合理なもの」と判明したとしても、ルールを変えるためには多くの手続きが必要になるから。

 

だから「8時間も働いたら集中力もたないんじゃね?」と国のお偉いさんが気づいて、よっこらしょと重い腰をあげるのを待っていても仕方がない。「どうすれば6時間労働でも食っていけるのか」それを法律に触れない範囲で探っていく必要がある。

 

さっき紹介した記事の人もそうだけど、8時間未満の労働で食っていける手段として「インターネット」は大いに活用すべきだと思う。僕も3年ぐらいネットビジネスに関わっていたことがあり、ただの学生が月に数十万、数百万を稼ぐという例も少数だが実際にあった。

 

僕が今ネットで食うために動き出していることは2つあって、1つが「ワードプレスアフィリエイトブログ」を立ち上げることだ。

アフィリエイトで月5千円以上稼げる人は5%ぐらいしかいない」というデータがあるように簡単なことではないが、社会不適合者の自分は5%以内に入れるはず(?)という謎の自信がある。

 

もう1つが「ウェブ解析士」の資格を取得することだ。たまたまコンビニで立ち読みした雑誌でこの資格を見つけ、「これだ!」と思った。おそらくこの資格を取ることでたくさんのメリットが得られる。

アフィリエイトには確実に役立つし、Webコンサルができるようになったり、セミナーができるようになったり、ネットで生計を立てる人たちとの繋がりが作れたりする。

 

専門的なウェブ解析の力を身につけたら、それを生かしてアーティストプロデュースなんかもやってみたい。『感覚ピエロ』のように現代はネットの力を生かし、セルフプロデュースで活躍するアーティストが現れ始めている。

もし「この人に売れてほしい。応援したい」と思ったアーティストと二人三脚で高みを目指すなんてことができたら、すごくワクワクするしやりがいがあると思う。

 

こんな感じで、最近は自分の進むべき道がどんどん明確になってきている。1年前は目の前が真っ暗になったようにどん底だったけど、人生は落ちるときもあれば上がるときもあるらしい。

父が「人生は山あり谷ありやで」と言っていたのが今になって思い出される。

 

これから辛いことも苦しいこともたくさんあるだろうけど、今はただ前に進み続けたい。

このブログを10年、20年後に読み返した時に何を思うか

今日は友人とロフトで手帳をみていた。「仕事の気づきをメモに残したいから手帳探しに付き合ってほしい」とのことだった。

 

手帳を探しながら、「そういえば僕もこうして自分の気づきをブログに書いたり、1年半前から日記をつけたりしてるなー」と思っていた。

 

友人と別れた後、ふとこんな考えが浮かんだ。

「もし20年後にこのブログを読んだら、自分は何を思うのだろうか」

 

「青いな」と思うのかもしれないし、「意外と良いこと書いてるやん」と思うかもしれない。いずれにせよ、自分がおっちゃんになり下の世代を育てる立場になった時に、若者の感性や考えを理解する助けになるだろう。

 

それに、20年後の自分が読んでも「たしかにそうだ」と思えることは、きっと自分にとって普遍的に重要なことなのだと判断できる。

1年半前の日記やブログ記事を読み返す今でさえ自己発見に役立っているのだから、10年、20年と蓄積されればもっと価値のあるものになりそうだ。

 

どこかの名言集に「人生とは自己発見の旅である」と書いてあって、たしかにそうだなと共感した覚えがある。先日の記事にも書いた通り、「自分が何者であるか」を知ることは充実した人生を送るための鍵だと思うからだ。

 

だから、これからはもっとブログを書こうと思う。せっかく日々何事かを考えているのに、時が経つにつれて気づきやアイデアが消えていくのはもったいない。それに書く中でより考えが明確になることもよくある。

 

1年前ぐらいにも「もっと書きたい」みたいなことを書いてた気がするけど、今度こそ続けたい。最近は「モノ書きで食っていきたい」という気持ちがより強くなっているから続けられそうな気がする。

 

僕には死ぬまでに「自分が書いたものを出版化もしくは映像化したい」という夢がある。

自分という人間が描く世界観は、人々にどう受け取られ、どんな考えや感情を生み出すのかを知りたい。批判されて傷つくこともあると思うけど、きっと自分の世界観に共感してくれる人がいるはず。

 

僕の拙い記事にスターをつけてくださる方もそうだけど、自分の作品に共感してくれる人がいるという事実は「自分だけじゃないんだ」という安心を得られるし、生きる支えになる。

それに「あなたの作品が私の生きる支えになっています」と言ってくれる人がもしできたとしたら、それ以上の喜びはないだろう。

 

今は幸いにもWEBメディアの編集という形でインターンをさせてもらっているので、自分の書く力を高めて、ゆくゆくは素晴らしい作品を生み出せるライターになりたい。

 

話が脱線してしまったが、とにかく書き続け、考えを見える形で残すこと。これを今まで以上に徹底していこうと思う。

人生とはジグソーパズルのようなものかもしれない

 

疲れた頭でシャワーを浴びながらごちゃごちゃ考えてたら

ふとタイトルのような考えが浮かんだので書き残しておく。

 

僕は多くの場面で「対等であること」を重視していて、「価値とは何か」とか「ギブアンドテイクは人間関係の原則なのだろうか」ということをよく考える。

ビジネスは基本的に「価値の交換」だから、フェアだし僕の価値観に合致していて好きだ。

 

それがどう転がって「人生はジグソーパズルだ」なんて結論になったかというと

自分でもまだ整理できてないので、書きながら考えていきたい。

 

まず「ギブアンドテイク」を考えたときに、シンプルな例は「ノート見せてやるから飯おごって」的な関係だ。これはわかりやすい。ノートから得られる「知識」と「食事代」を交換している。

 

では、「親が一人暮らしの息子に家賃を払う」とかはどうだろうか。一見、親は何の対価も得られていないように感じる。しかし実は「感情的な価値」を得ている。大富豪が巨額の寄付をするのと同じく、「与える」ことは自分の豊かさを実感する行為であり、「自分には生きる価値がある」という強い実感が得られる。

 

僕も「意味のある人生だった」と感じながら死にたいと考えていて、そのために少しでも多くの人に価値を与えて、それを自分の生きた証にしたい。こんな考えに至ってから、少しは「親心」というものを理解できるようになったのかもしれない。

 

このように基本的に世の中は「価値の交換」で成り立っていると考えられる。

ただ、全てが同じような交換ではなく「質の違い」があるのではないかと思う。

 

例えば「奴隷制度」なんかは、非常に質の低い交換だ。奴隷側は贖罪や生きる糧を見返りに、人身を主人に与え、主人は自由な労働力を得る。確かに交換は成り立っているが、奴隷側に著しく不利な交換ではないだろうか。

 

こんな難しい例を挙げなくとも、昔やっていたカードゲームで「鮫トレ」というのがあった。大の大人がカードの価値を分かっていない子供に不当なレートの交換を持ちかけるというものだ。子供はその時は納得していても、後々誰かに損したことを知らされショックを受けることになる。

 

以上のような「不当な関係」が質の低い交換の1つだ。

 

そしてもう1つが人間関係、仕事、職場などにおいて「合う合わない」というもの。

どちらかというとこれについて書きたかった。

 

人間は誰しもジグソーパズルのように、形の違うピースであり、それを合わない穴に無理やりねじ込めば、ギチギチに固まって抜けなくなる。はめ込まされている方は、とても窮屈で「居心地」が悪い。

 

DVを受けてる人やブラック企業で働かせられている人は、本当は素晴らしい形のピースなのに、合わないところに入れられて疲弊している。

一見「価値の交換」が成り立っているようで、その本質は歪だ。

 

だからこそ、僕は「合わないな」「居心地が悪いな」と感じたら、すぐさまその人やその場から離れるようにしたい。

合わない相手が必ずしも悪いわけではなく、たまたま「自分が」そこに合わないピースだっただけだ。探せばきっとどこかに自分がピタッとハマる場所があるはず。

 

1つ目に挙げた「不当な交換」は、パズルに例えると「穴に合うようにそれ以外の部分を粉々に削られてはめ込まされちゃう」みたいな感じだろうか。ちょっと無理やり感があるが致し方ない。

 

つまり僕が言いたいのは、生きる上で重要なのは、「まず自分がどんなピースであるのかを知り、それに合う穴を必死こいて探し続ける」ということだ。「自分を知ること」というのは、たぶんすごく難しいし、合う穴を探すのもきっと簡単じゃない。

 

だとしても、今感じている「違和感」や「居心地の悪さ」に妥協せず、もっと自分にとって良い道を僕は探し続けたい。

 

なんだか良いことを言えた気がするので、もう寝ることにする。明日は週5勤務の終着点。なんとか乗り切ろう。