世の中の不条理について

 

都会で過ごしていると、つい文句を言いたくなる瞬間がある。

 

僕が最も毛嫌いしているのが「歩きタバコ」だ。

 

 

ひどいニオイがする上に、

受動喫煙による健康被害まであるのだから

本当にタチが悪い。

 

喘息持ちの友人は、タバコの煙を吸うと

咳が止まらなくなるらしい。

 

 

それなのに、歩きタバコをしている本人は平然としていて、

周りに迷惑をかけている自覚がまるでない。

 

自分さえ気持ちよくなれればいいのだろうか。

まるで強姦魔のような精神だと思う。

 

 

ただ、歩きタバコが嫌いだからといって、

いちいち本人を糾弾していたらキリがない。

 

逆上されたりするのも怖いし。

 

でも、平然と歩きタバコができてしまう

「社会的な仕組み」の問題があるはずだから

せめてそれだけでも明らかにしたい。

 

 

歩きタバコが発生する1番の理由は、

「他の人もやっているから」だろう。

 

街中で平気な顔で歩きタバコをする人を見て、

他の喫煙者たちも「別にいいか」と

さも当然のことのように受け入れてしまう。

 

クラス内で起きるイジメと同じような連鎖だといえる。

(みんなアイツのことが嫌いみたいだから、

 俺も仲良くしないでおこう)

 

 

歩きタバコはしてほしくないけど、

どうしてもやりたいなら

せめて「申し訳そうな顔」をしたりとか

背中を丸めてコソコソした態度でいてほしい。

 

でも現実は、むしろ

「タバコくわえてるオレ、カッコいいでしょ」

とでも言いたげな表情をしているから、虫唾が走る。

 

 

ともかく、「周りもやってるから」という意識があるということは

喫煙者たちの中で歩きタバコが「常識化」してしまっているともいえる。

 

常識になってしまうと、「無意識」で行動が処理されてしまうから

いくら注意喚起しようが聞く耳をもつことはない。

 

歩きタバコ常習犯は

歩きタバコ、ダメ絶対。」なんてポスターを無視するし

JTのCMで流されるキレイゴトなんて聞いちゃいない。

 

 

本当に「悪いこと」をしている自覚が芽生えるのは

禁止区域で吸っているところを通報されて罰金を取られたり

喘息持ちの人に「やめてください」と注意されたときぐらいだろう。

 

そういう痛い目を見ない限り、

「なんで俺たち喫煙者が肩身の狭い思いをしなきゃいけないんだ」

と被害者ヅラしながら、さも当然の権利のように

歩きタバコをふかすのでしょうね。

 

 

 

世の中の不条理について書こうと思ったけど

つい歩きタバコへの不満ばかり書いてしまった。

 

ここで少し一般論みたいなことも語ってみたい。

 

 

「不条理だ」とされる社会問題は

歩きタバコ以外にもたくさんある。

 

そして、「不条理」というからには

一筋縄ではいかない複雑な事情がある。

 

保育園の待機児童の問題も(全く詳しくないけど)

土地の問題とか法律の問題とか資金の問題とか

そういったものが複雑に絡み合って生まれてしまったのだろう。

 

 

ーよくテレビでデモの様子が報道される。

 

デモに参加する人々は

『問題の原因は

特定の個人や組織の「怠慢・不正」だと決めつけて

「悪者探し」を始めて

悪者らしき人を見つけたら糾弾する』

 

そんなことをしても、

根本的な解決にはならないし

不毛な議論が始まるだけじゃないか。

 

 

役所に文句を言いに行ったり、デモを起こす前に

「誰が悪いのか?」だけじゃなくて

「なぜこの問題が起こったのか?」

という疑問も同時に持つべきだと思う。

 

デモは「当事者にプレッシャーをかける」という意味では

無駄な行為ではないと思うけど、

不満を叫ぶだけで解決するほど

簡単な問題ではないんじゃないか。

 

 

結論がみえなくなってしまったけど

とりあえず書きたいことは書けたので

この辺で終わります。

 

歩きタバコはほんとにやめてほしいな。

 

 

補足

不満を言っても変わらないとわかっていても

本気で許せない、嫌だと思っていたら

不満を言わずにはいられない。

 

この記事が矛盾した内容になってしまったのは

こんな気持ちが僕の中にあったからだ。

 

 

それに、民法の教科書の中に

「権利のための戦い」

という言葉が書かれていたのを思い出した。

 

これは、50万円の賠償金を勝ち取るのに

100万円をかけて訴訟する人は一見不合理なように思えるけど

裁判を起こすことは「権利を主張すること」であり、

お金よりも大きな「権利」のために戦っているのだという意味だ。

 

デモは裁判のように「判決」がないから

権利を勝ち取る瞬間は訪れないかもしれない。

 

けど、「不満を持つ者がここにいる」確かさを証明することはできるし

感情的な訴えが、当事者の取り組む姿勢を変えることもある。

 

例えば歩きタバコデモを起こしたとしたら、

JTがなんらかの策を講じてくれるかもしれない。

 

 

ただ、僕はやっぱりデモに参加するよりも

問題自体に向き合って解決のための行動を起こす人になりたい。

 

デモは結局「誰かなんとかしてくれよ」という域を出ないから。

そこはあんまり好きじゃない。

後期の振り返り:大学の講義を真剣に受けてみて

 

昨日、後期のテスト・レポートが全て終わり

今日から春休みに入った。

 

 

おそらく29単位分、すべて取得できたはずだ。

 

12月〜2月までは週5で大学に通い、

16コマ分の講義を受けていて

こんなに真剣に取り組んだのは4年目にして初めてだった。

 

レポートを書いたり、教授に質問したり、講義内容をまとめたりする中で

ある程度、脳みそがアップグレードされたように思う。

 

 

複数の教授の話を聞いて印象に残っているのは

「世の中の人は、〜について間違った認識・理解をしている」

という話が何度かあったことだ。

 

 

例えばコーポレートファイナンスの授業では、

日経新聞の見出しをピックアップして

「株価だけで比較するべきではなく、

 株式時価総額で比較しないといけない」

というような話がされていた。

 

あとは「ハイリスク・ローリターン」という用語がビジネス書でたびたび登場するが、そのような概念は存在しない。勝○和代さんは間違っている。

 

というような話もあった。

 

ちなみにその講義は、教授の説明がプロ講師並みにわかりやすく

基本的なところから理解することができたので

なぜ日経新聞や勝○和代が間違った主張をしているのか

初学者でも理解することができた。

 

 

こういった「間違った理解に基づいた情報」というのは

世の中にいくらでもあるのだと思う。

 

WELQの問題も記憶に新しいが、インターネットの発達で情報発信が容易になった分、「質の悪い情報」が蔓延している。

 

やはり身元のわからない発信源よりも、大学教授のように身元がはっきりしていて、かつその分野に精通している人から学ぶことが、より重要になってくるのではないだろうか。

 

もちろん「専門家」だからといっていつも正しいとは限らないが、

基礎を学んで背景にある論理構造を理解できていれば、

易々と騙されることはないだろう。

 

 

来期はもっと体系的に経営学を理解して、

実践で生かせたり

他人に役立てたりできるレベルになりたい。

格言や諺の危険性

 

マーケティングの授業を受けていて思ったこと。

 

マーケティングには様々な理論やモデルがあるが、

それらは複雑な市場や消費者心理を読み解くためのものである。

 

また、理論を使って考える際にもしっかりと仮説と検証を行う必要があり、

その効果は考察者が「どのような仮説を立てるか」「どのように検証し、結果を解釈するか」によるところが大きい。

 

 

つまり、知識を詰め込んで「お勉強」するだけでは、マーケティングの理論を効果的に使用することはできないということだ。

 

理論やモデルは確かに便利だが、使用者が「自分で深く考える」というプロセスを経なければ意味のないものになってしまう。

 

 

タイトルには「格言や諺の危険性」と書いたが、

何が危険かというと「現実を極端に単純化して捉えることで、誤った判断をしてしまう」ことだ。

 

(格言や諺は冒頭の話でいう、「理論」「モデル」にあたる)

 

 

例えば、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺がある。

 

これは組織に関する話題で、「大きな団体の属員となるより、小さな団体でもその頭(かしら)になる方がいい」という意味で使われることが多い。

 

 

わかりやすくいえば、「大企業の平社員になるより、小さくてもベンチャーの社長の方がいいよ」というようなことだ。

 

僕が就活で企業の合同説明会に行くと、ベンチャー企業のプレゼンで「鶏口となるも・・・」という諺が飛び出すことがある。

 

「大企業に比べて、うちの会社なら成果を出せばどんどん昇進できるよ。歯車になるより、役員の方がいいよね?」ということが言いたいのである。

 

 

人によっては早く上に行きたいという場合もあるが、もちろん全員がそうではない。

 

例えば「仕事のやりがい」より「ワークライフバランス」なんかを重視する人は、昇進より「残業がいかに少ないか」が大事になったりする。

それなら激務になりがちなベンチャーより、安定した大企業の方がいいという選択になるはずだ。

 

しかしもし、本当は「安定」を求めているのに、

「鶏口となるも・・・」という諺を信頼して「これを指針に決めよう」となったら、

ベンチャーを選んでしまうかもしれない。

 

 

現実にはこんなバカな選択はしないかもしれないが、

理論(諺)の根拠や正当性も確かめないままに、行動の指針にしてしまってる人は多いのではないだろうか。

 

 

僕が趣味でやっている麻雀でもこういうことはよくあって、

「早いリーチはイースーソー(1・4待ち)」みたいな格言を

うちのおじいちゃんは本気で信じていたりする。

 

何の判断力もない小学生の僕に、おじいちゃんはこういうことを教えるから、たまったもんじゃない。

 

今では論理的に考えることができるようになったので、「こんな理論はアホだ」と断言できるけど・・・

 

 

結論、言いたいことはこうだ。

 

いくら理論やモデルを覚えたところで、本当の意味で使いこなすためには

「自分の頭で考える」というプロセスが欠かせないということ。

 

 

マーケティングは消費者心理などの「雲をつかむようなもの」を扱うことが多いと感じたので、今回のような考えを思いついた。

 

「社会に出たら『お勉強』ができるだけでは通用しないよ」

タビオ創業者の越智さんがおっしゃっていたが、その意味が少しわかった気がした。

 

 

★補足

<1つ目>

「鶏口牛後」の由来を調べてみたところ、以下のような回答を見つけた。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」…とは、どういう意味ですか?また、読み... - Yahoo!知恵袋

 

この回答を信頼するなら、「鶏口となるも・・・」という言葉は、大国の配下に下るかどうか迷う王に対して、家臣が「王を説得するために進言した」言葉である。

 

家臣が「牛後となるな」と言った理由は、「まだ配下に下らなくても大丈夫なこと」、「笑いものになってしまう」というものだった。

 

要は「プライドの問題」であるとも読み取れる。

 

 

つまり、何が言いたいのかというと

「鶏口牛後」を適切に使うとしたら

「牛後でもお前のプライドは傷つかないのか」という意味であって、

 

雇われ先を探している人に対して「小さな組織でトップやった方が得だよ」という意味ではないということだ。

 

「鶏口牛後」に従ったとして、存在価値のわからない組織でトップになって威張るより

高い価値を提供している組織を後ろからサポートする方が意義があるんじゃないか。

 

 

<2つ目>

諺や格言は「物事を単純化しすぎて誤った判断を招く」という危険性を指摘したが

これは悪い使い方をすれば「人を説得するための武器」にもなりうる。

 

麻雀ど素人の小学生に対して、「『早いリーチはイースーソー』という格言があるから、早いリーチがきたら警戒しろよ」と言ったらすんなり信じてしまうだろう。

 

ベンチャーか大企業か迷ってる人に「鶏口牛後だよ」と言ったら、なんとなくベンチャーを選んだ方が良い気がしてしまう。

 

 

「根拠がないこと」を知っていながら、「説得するために」格言を使うとしたら

それはとてもズルいことだと思う。

(「根拠がある」と信じて使う無邪気な人の方が多いだろうが)

 

だから、根も葉もない諺や格言にほだされないように、

「それは確かなのか、自分の頭で考える」という防御策を取れるようにしておきたい。