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内省の日々

とある学生の頭の中

後期の振り返り:大学の講義を真剣に受けてみて

 

昨日、後期のテスト・レポートが全て終わり

今日から春休みに入った。

 

 

おそらく29単位分、すべて取得できたはずだ。

 

12月〜2月までは週5で大学に通い、

16コマ分の講義を受けていて

こんなに真剣に取り組んだのは4年目にして初めてだった。

 

レポートを書いたり、教授に質問したり、講義内容をまとめたりする中で

ある程度、脳みそがアップグレードされたように思う。

 

 

複数の教授の話を聞いて印象に残っているのは

「世の中の人は、〜について間違った認識・理解をしている」

という話が何度かあったことだ。

 

 

例えばコーポレートファイナンスの授業では、

日経新聞の見出しをピックアップして

「株価だけで比較するべきではなく、

 株式時価総額で比較しないといけない」

というような話がされていた。

 

あとは「ハイリスク・ローリターン」という用語がビジネス書でたびたび登場するが、そのような概念は存在しない。勝○和代さんは間違っている。

 

というような話もあった。

 

ちなみにその講義は、教授の説明がプロ講師並みにわかりやすく

基本的なところから理解することができたので

なぜ日経新聞や勝○和代が間違った主張をしているのか

初学者でも理解することができた。

 

 

こういった「間違った理解に基づいた情報」というのは

世の中にいくらでもあるのだと思う。

 

WELQの問題も記憶に新しいが、インターネットの発達で情報発信が容易になった分、「質の悪い情報」が蔓延している。

 

やはり身元のわからない発信源よりも、大学教授のように身元がはっきりしていて、かつその分野に精通している人から学ぶことが、より重要になってくるのではないだろうか。

 

もちろん「専門家」だからといっていつも正しいとは限らないが、

基礎を学んで背景にある論理構造を理解できていれば、

易々と騙されることはないだろう。

 

 

来期はもっと体系的に経営学を理解して、

実践で生かせたり

他人に役立てたりできるレベルになりたい。

格言や諺の危険性

 

マーケティングの授業を受けていて思ったこと。

 

マーケティングには様々な理論やモデルがあるが、

それらは複雑な市場や消費者心理を読み解くためのものである。

 

また、理論を使って考える際にもしっかりと仮説と検証を行う必要があり、

その効果は考察者が「どのような仮説を立てるか」「どのように検証し、結果を解釈するか」によるところが大きい。

 

 

つまり、知識を詰め込んで「お勉強」するだけでは、マーケティングの理論を効果的に使用することはできないということだ。

 

理論やモデルは確かに便利だが、使用者が「自分で深く考える」というプロセスを経なければ意味のないものになってしまう。

 

 

タイトルには「格言や諺の危険性」と書いたが、

何が危険かというと「現実を極端に単純化して捉えることで、誤った判断をしてしまう」ことだ。

 

(格言や諺は冒頭の話でいう、「理論」「モデル」にあたる)

 

 

例えば、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺がある。

 

これは組織に関する話題で、「大きな団体の属員となるより、小さな団体でもその頭(かしら)になる方がいい」という意味で使われることが多い。

 

 

わかりやすくいえば、「大企業の平社員になるより、小さくてもベンチャーの社長の方がいいよ」というようなことだ。

 

僕が就活で企業の合同説明会に行くと、ベンチャー企業のプレゼンで「鶏口となるも・・・」という諺が飛び出すことがある。

 

「大企業に比べて、うちの会社なら成果を出せばどんどん昇進できるよ。歯車になるより、役員の方がいいよね?」ということが言いたいのである。

 

 

人によっては早く上に行きたいという場合もあるが、もちろん全員がそうではない。

 

例えば「仕事のやりがい」より「ワークライフバランス」なんかを重視する人は、昇進より「残業がいかに少ないか」が大事になったりする。

それなら激務になりがちなベンチャーより、安定した大企業の方がいいという選択になるはずだ。

 

しかしもし、本当は「安定」を求めているのに、

「鶏口となるも・・・」という諺を信頼して「これを指針に決めよう」となったら、

ベンチャーを選んでしまうかもしれない。

 

 

現実にはこんなバカな選択はしないかもしれないが、

理論(諺)の根拠や正当性も確かめないままに、行動の指針にしてしまってる人は多いのではないだろうか。

 

 

僕が趣味でやっている麻雀でもこういうことはよくあって、

「早いリーチはイースーソー(1・4待ち)」みたいな格言を

うちのおじいちゃんは本気で信じていたりする。

 

何の判断力もない小学生の僕に、おじいちゃんはこういうことを教えるから、たまったもんじゃない。

 

今では論理的に考えることができるようになったので、「こんな理論はアホだ」と断言できるけど・・・

 

 

結論、言いたいことはこうだ。

 

いくら理論やモデルを覚えたところで、本当の意味で使いこなすためには

「自分の頭で考える」というプロセスが欠かせないということ。

 

 

マーケティングは消費者心理などの「雲をつかむようなもの」を扱うことが多いと感じたので、今回のような考えを思いついた。

 

「社会に出たら『お勉強』ができるだけでは通用しないよ」

タビオ創業者の越智さんがおっしゃっていたが、その意味が少しわかった気がした。

 

 

★補足

<1つ目>

「鶏口牛後」の由来を調べてみたところ、以下のような回答を見つけた。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」…とは、どういう意味ですか?また、読み... - Yahoo!知恵袋

 

この回答を信頼するなら、「鶏口となるも・・・」という言葉は、大国の配下に下るかどうか迷う王に対して、家臣が「王を説得するために進言した」言葉である。

 

家臣が「牛後となるな」と言った理由は、「まだ配下に下らなくても大丈夫なこと」、「笑いものになってしまう」というものだった。

 

要は「プライドの問題」であるとも読み取れる。

 

 

つまり、何が言いたいのかというと

「鶏口牛後」を適切に使うとしたら

「牛後でもお前のプライドは傷つかないのか」という意味であって、

 

雇われ先を探している人に対して「小さな組織でトップやった方が得だよ」という意味ではないということだ。

 

「鶏口牛後」に従ったとして、存在価値のわからない組織でトップになって威張るより

高い価値を提供している組織を後ろからサポートする方が意義があるんじゃないか。

 

 

<2つ目>

諺や格言は「物事を単純化しすぎて誤った判断を招く」という危険性を指摘したが

これは悪い使い方をすれば「人を説得するための武器」にもなりうる。

 

麻雀ど素人の小学生に対して、「『早いリーチはイースーソー』という格言があるから、早いリーチがきたら警戒しろよ」と言ったらすんなり信じてしまうだろう。

 

ベンチャーか大企業か迷ってる人に「鶏口牛後だよ」と言ったら、なんとなくベンチャーを選んだ方が良い気がしてしまう。

 

 

「根拠がないこと」を知っていながら、「説得するために」格言を使うとしたら

それはとてもズルいことだと思う。

(「根拠がある」と信じて使う無邪気な人の方が多いだろうが)

 

だから、根も葉もない諺や格言にほだされないように、

「それは確かなのか、自分の頭で考える」という防御策を取れるようにしておきたい。 

 

大学で学ぶ意義を感じた授業

naisei.hatenablog.com

 

この記事に書いた「2限になったら人がいなくなる授業」を受けてきた。

 

かなり面白くて、4年生になってようやく大学で学ぶ意義というものがわかってきた気がする。

 

 

大学で学ぶ意義とは、「インプットの質を上げること」だと思う。

 

意義を語る前に目的が必要だが、僕は就活生なので「仕事での成功のために」ということで考えていきたい。

 

 

典型的に大企業で管理職になれるのは、ほとんどが大卒であるという。

 

それがなぜなのかを、今までは「大卒=高卒より頭が良い=優秀?」という短絡的な文脈で捉えていた。

 

今回は、その「優秀」というのはどういうことなのかを掘り下げる。

 

 

優秀と認められるには、「大きな成果を出すこと」が必要である。

そして大きな成果(アウトプット)を出すためには、質の高いインプットが必要だ。

 

大学で真剣に学べば、「質の高いインプット」ができるようになるのではないか、というのがふと思ったことであり、僕の仮説。

 

 

僕が先ほど受けた授業は「外国書購読」という名前で、海外の論文を和訳した上で解釈するというものだ。

 

要は、自分で海外の文献を調べ読めるようになり、専門知識を自ら取り入れられるようにするというのがこの授業の趣旨である。

 

 

題材はポーター仮説で、理解するためには経済学の知識が必要となる。

 

僕は経営学部生なので、ミクロ・マクロ経済学の基礎は1年生のときに学んだが、正直ほとんど知識がないようなものだ。

 

今日の授業では、「そもそも科学とは何か、社会科学と自然科学の違いは何か」という大前提から遡って解説してもらえたので、最終的には具体的な回帰分析のモデル(最小自乗法)まで理解することができた。

 

 

前提となる知識が頭に入っていれば、具体的なモデルの説明などをされても論理が頭の中で繋がるので、今までにない「面白さ」を感じながら講義を受けられた。

 

そのときに、「ああ、こういう専門的な論文とかを咀嚼しようと思ったら、大学でしっかり学ばないとダメだな」と4年生にしてようやく気づくことができたのである。

 

 

「質の高いインプット」に話を戻すと、「質が高い」とは言い換えれば、

「誰もが入手できたり、理解できる情報ではない」ものであったり、

1つの情報に当たったときに「どれぐらいのレベルで理解できているか」ということだと思う。

 

社会人でいえば、本格的に学問を修めていない高卒の人は、書店にあるわかりやすいタイトルの付いたビジネス書の内容などからしかインプットすることができないが、

大学でしっかりと学んだ人は、一般人が理解できない論文から情報を得たりできる。

 

また、同じビジネス書を読んでも、頭の中にある前提知識の多さや、論理的思考力などの違いから、大卒の方が深いレベルで理解することができるだろう。

 

これが、インプットの差であり、この差が積み重なって、それぞれの「アウトプットの限界」が決まるのだと思う。

 

 

もちろん、仕事の中でも学問ではどうにもならないものがある。

 

例えば、営業職なんかは天性のコミュニケーション能力やルックスの良さなどがあれば、大卒との差なんて目じゃなくなるだろう。

 

スポーツや芸術も才能の要素が大きいから、いくら理論を知ったところで天才には勝てない。

 

 

先ほど教授に教わったが、そもそも科学というのは「誰でも再現できる理論」を導き出すものであるから、

社会科学を学んで得られるスキルというのは誰が学んでも武器になるから「打てば響く」ものであると言える。

 

ただし、もっと影響力の強い先天的な要素(才能)を持つものには太刀打ちできないということだろう。

 

 

うまくまとまっていない気がするが、大学で学ぶことで得られるのは

・幅広い分野の知識のシャワー

・専門的な文献の読み方

・レポートなどを通して得られる論理的に書く力

・講義や文献を咀嚼することを通して得られる論理的思考力

などであり、

こういったものが「インプットの質を上げる器」になるのだろう。

 

そう考えれば、「どの分野を専攻するか」ということよりも、どんな分野でも「どれぐらい真剣に4年間学んだか」ということの方が、社会に出てから活躍する上で重要なのではないかと思う。

 

とにかく、今日からいっそう真面目に勉強します。

 

 

 

 

感謝について その3

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々

 

感謝についての続き - 内省の日々

 

しつこいようだが、夕食をとりながら思いついたことがあるので書く。

 

 

2つ目の記事で、本能的な欲求と理性的な欲求があって、どちらの欲求に従った行動を「あるがまま」とするのか、と書いたが、マズローの欲求5段階説を用いれば済むことだった。

 

前回述べた「理性的な欲求」(お年寄りに席を譲る人間でありたい)は、

マズローの言う「尊敬・評価の欲求」もしくは「自己実現の欲求」に当てはまる。

 

また、欲求5段階説では、基本的には下から順に満たされていくが、もし下の欲求が満たされていなくても、上の欲求を求めることがある。

 

例えば、職がなくてロクに食えていない状態でも、愛情を求めたり、名声がほしいという気持ちは多少なりともあるはずだ。

 

参考ページ:

改めて「マズローの欲求5段階説」を知って人生のモチベーションを高めよう

 

 

つまり、人間が「あるがまま(やりたいよう)に行動する」というときには、

本能的なものから理性的なものまで含まれると言えそうだ。

 

そう考えれば、「人に何かをしてもらったとき」というのは、その人がなんらかの理由(欲求)で「それをやりたかったからだ」ということになる。

 

 

それを踏まえて、「人はどういうことをしてもらったときに、心が動かされて感謝の気持ちが芽生えるのか」ということを考えたい。

 

 

心が動かない例としては、「ビジネスとして」何かをしてもらったときがあげられる。

 

目的地まで乗せてくれたタクシーの運転手に「ありがとう」と言いはすれど、じわ〜っと感謝の気持ちを感じたりすることはないだろう。

 

お金という「対価」を払う以上、運ちゃんがお客を運ぶのは「義務」だから、

単なる「取引」だと普通は考える。

 

 

欲求という意味なら、運ちゃんは「お金がほしいから」乗せて行った。

 

さすがに「お金がほしいからやりました」という人に感動することはないだろう。

 

 

逆に心を動かされるときというのは、見返りもなしに(対価なしに)何かをしてもらったときではないだろうか。

 

道端で急にお腹が痛くなってうずくまっていたら、「大丈夫ですか?」と通りすがりの人に声をかけてもらえた。挙句の果てに介抱までしてもらえた。

 

こんなことがあれば、誰でも「ありがたいなー」と感謝の気持ちを抱くことだろう。

 

 

さっきの欲求説を踏まえれば、助けてくれた人は何かの欲求があってしてくれたといえる。

でも「お金がほしい」とか自分のための行動とは考えづらいから、優しさを感じて、感謝の気持ちが芽生えるのだろう。

 

 

こういうときに、助けてもらった側の心理状態をもう少し分析すると、

「優しくしてもらって嬉しい」という気持ちと、「助かったーという安心感」と「こっちは何もしてないのに、申し訳ない」という気持ちが入り混じっている。

 

で、「ありがとう」と言いたくなる元は、3つ目の「申し訳ない」という気持ちからきてるんじゃないか。

 

言いかえれば、「テイクだけして、相手にギブできていない状態」に居心地の悪さを感じているということだ。

 

今すぐには何かお返しできないけど、少なくとも「あなたのおかげだ」ということを伝えたいから、「ありがとう」と言う。

 

 

もちろん、さっきも言ったように「申し訳ない」気持ちだけではないと思う。

 

感謝するときに出てくる涙は、「嬉しい」とか「安心感」からきているものだろう。

 

ただ、それらの中でベクトルが相手に向かっているのが「申し訳ない」という気持ちではないかということが言いたい。

 

 

グダグダと書いたけど、感謝が足りない人は、相手に「申し訳ない」と感じていなくて、「与えてもらって当然」という考えでいるからなんじゃないかな。

 

<これをしてもらえて当たり前>

のその「当たり前」の基準がどこにあるのか、そこが感謝の気持ちを持つかどうかの分かれ目なんだろう。

 

自己啓発本に書かれていた、

『「有難い」の反対は「当たり前」である』というのはこういうことだったんだな、と理解できた気がする。

 

 

P.S.

文章の語尾を自然な形にするのって難しい。だろう、だろう、としつこい文章になってしまった。

 

あと、やっぱり論理構成がめちゃくちゃだ。

ちゃんとノートに下書きしたりしてから書くべきなんだろうけど、思いついたままに書くとこうなる。でも下書きするのはめんどくさい。

 

ふだん本やブログで読んでるわかりやすい文章のすごさを改めて感じた。

なぜ(僕の学部の)学生は授業を真剣に聞かないのか

 

今日は午前中に1・2限の連続授業があって、今は昼休みだ。

 

1限の授業には出席点があるが、「2限は出席を取らない」と教授が言うと、

僕以外の学生は帰ってしまった。(1限は20人ぐらいいた)

 

2限は補足的な内容なので、授業に出なくてもテストで点は取れる。

 

1対1で講義を受けられたので、質問できたり、教授と小話ができて

濃い学びがあったので結果的には良かった。

 

 

しかし、なぜうちの学部の学生は熱心に授業を受けないのか疑問に思った。

 

ちなみに僕は経営学部で、教授が自称するところによれば

経営学分野で日本最高水準の教授陣を揃えている。

 

本来ならもっと熱心に学ぶ学生がいてもいいはずだ。

(もちろん一定数は存在している)

 

 

前にも書いた気がするが、うちの教授は「なぜこれを学ぶのか」という講義の目的を話すことがあまりない。

 

学ぶ側のモチベーションを高める要素として、学ぶ意義を伝えることは重要なはずなのにあまり話されない。

 

これがなぜなのかと長らく疑問に思っていたが、今日の教授との小話で少し見えてきたものがあった。

 

 

理由は大きく2つあると思う。

 

1つは、学生が大学に学びに来る目的が多様であること。

 

僕みたいに「①起業したくてビジネスを学びたい」という人もいれば、「②会計学を学んで公認会計士になりたい(資格を取りたい)」人や、「③経営学部は就活で潰しが効く」という人、「④学者・研究者になりたい」という人もいる。

 

パイの大きさとしては③の層が圧倒的に多いように思う。

 

(入学前のイメージでは①の人が多いのかなと思っていただけにがっかりした)

 

このように、学ぶ側の目的が多様だから、教える側も「このために学ぶ」と明確に定義することが難しいのだろう。

 

 

もう1つは、学部として「学部生にどうなってもらいたいのか」というビジョンが明確に定まっていない、もしくはうまく浸透していないこと。

 

ビジョンのあるなしでどう変わるのかというと、

例えば、「花を育てること」を学ぶ学部があったして、「とにかく大きな花を咲かせられる人材を育てる」というビジョンが学部レベルで設定されていれば、「水のやり方」や「肥料の使い方」などの個々の授業も、同じ方向を向いた話になるはずだ。

 

学生側も「大きな花を咲かせるために、これを学んでいるんだな」と分かるから、意欲を持って学ぶことだろう。

 

 

入学時のガイダンスで、学部長がこういった話をしていた気がするが、

経営学の知識が皆無で、かつ「偉い人の退屈なオハナシ」と思っていた僕らには到底伝わらない。

 

だから、学ぶ目的をうまく設定できない僕らは、「単位を取ること」を第一目的にして授業を受けることになってしまう。

 

今朝の例も、「出席点がないから」みんな帰ってしまったのだ。

(資格試験の勉強をしたいとか、他の授業の宿題がある人もいるだろうが)

 

 

ではこの「学ぶ目的の見えない学生たち」を減らすにはどうすればいいのか。

 

根本から変えるには、大学ではなく、小中高の教育まで遡らなければいけないように思う。

 

どこかのタイミングで、大学での学びについて情報を与えてもらえていれば、

ある程度は目的を持って学べる学生が増えるのではないだろうか。

 

 

僕なんかは、「金持ちになりたい→社長になればなれるかも→社長=経営者→経営学を学ぼう」というかなり短絡的な理由だったが、経営学を学ぶ強いモチベーションになっていた。

 

大学に入ってからは、たくさん本を読んだり、賢い友達に出会ったり、教授の話を聞いたりしているうちに徐々に「金持ちになりたい」以外の学ぶ目的が定まっていった。

 

 

ただ、僕みたいに考えを巡らすのが好きな人は自然とそうやって学ぶ目的を見つけていけるのだろうけど、そうじゃない人たちはなかなか難しいんじゃないのか。

 

特に③の「潰しが効くから」という理由で選んだ人などは。

 

 

今のところ解決策はあまり分からないが、いち学生でも何か変えられる部分がないか

引き続き考えていきたい。

 

感謝についての続き

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々

 

前回の記事を書いてから1週間が経った。

 

記事を書いたときはスッキリした気分だったが、

次の日になって釈然としない気持ちになってきた。

 

自分が感覚的に感じていることと書いたことに、なんとなくズレがあるような気がして、でもそれがなんなのか分からないという状態。

 

 

僕は合理的な考え方が好きだが、感覚人間でもある。

やるべきとは思っても、気分が乗らなければ動けない。

 

人が自分に対してどんな感情を抱いているのかも、場の空気を感じて読み取ろうとする。

だから、攻撃的な人や自分を見下してそうな人と過ごす時間は辛い。

 

 

ともかく、こうして文章にすることで、自分の考えの過程を残して後から吟味できるというのは、考えを深める上でとても重要だと思った。

 

前回の記事を読み返して、論理のちぐはぐさが分かったり、実は自分はこんなことを考えていたんだという発見があった。

 

 

1つ、自分で書いていて「よくわからんなー」と思ったことがある。

 

「『人はあるがままに生きている』という考え方が背景にあるから感謝の念を抱くことはないのではないか」

と冒頭で述べたけど、

終盤では「その気持ちはないのに理性で制御して行動するのが人間的」という「あるがまま」とはかけ離れたものを感謝の形とした点。

 

 

「あるがまま」を「やりたいようにやる」ということだと解釈すると、

1つの行動の背景にある「欲求が何であるか」によって話が変わってくる。

 

例えばお年寄りに席を譲るということであれば、

「席を譲りたくないけど、周りの「譲れよ」というプレッシャーを感じて、その圧から解放されたくて譲った」のか

「弱きものに手を差し伸べるという高尚な人間で在りたいと思ったから」

なのか、など同じ人物でも色んな欲求が考えられる。

 

前者なら「本能」に近い「あるがまま」だと言えるし、後者なら「理性」に近い。

 

 

あるがまま=好きなようにやる、を本能的なレベルで捉えるか、理性的な(高尚?)レベルで捉えるかで、自分や篠田さんが「人間をどう見ているのか」や「感謝とは何なのか」をどう考えているのかが変わってくる気がする。

 

(自分で書いていて何が言いたいのかよくわからない)

 

 

後は、感謝の気持ちを「感情として」感じることはあるのか、という疑問が1週間前はあったが、今は「あるかもしれない」と思い始めている。

 

なんというか、何かを達成した瞬間(金メダルを獲るなど)にそれまでの努力や周りの支援の記憶が走馬灯のように思い出されて、

じわ〜っと何かがこみ上げてくるような感覚。

 

その感覚こそが、「感謝の感情」で、その感覚を味わったときに人は「ありがとう」と言いたくなるのかもしれない。

 

 

受験で第一志望に合格したり、サークルで自分で立ち上げた企画がうまくいったときは多少なりともこの感覚を味わった気がする。

 

ただ、自分が自意識過剰だからなのか、自信過剰だからなのか、たぶん人に比べて、その感覚が弱いのだと思う。

 

 

でも、死ぬまでに一度は、洪水のように激しい感謝の感情を味わってみたい。

 

昨日、AbemaTVでやっていたUVERworldの京セラドーム公演で、目を赤らめながら歌っていたTAKUYA∞の姿を見てそう思った。

 

 

ほんとに、こんな記事を誰かに公開して意味があるのかと自分でも思うが、はてなブログはなんか書いていて楽しい。

 

★をつけてもらえるのも嬉しいです。ありがとうございます。

 

いつの日か、ありがとうと言いながら、鼻水を垂らせますように。

 

 

 

 

 

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか?

 

録画していたNHKの対談番組を観た。

www.nhk.or.jp

 

「104歳の芸術家 篠田さん」と「103歳の医師 日野原さん」の対談である。

 

この二人は篠田さんが言うように、正反対の考え方をしているようだが

僕は篠田さんの考え方に非常に共感した。

 

岡本太郎もそうだが、芸術家の自由というか自立した考え方に共感することが多い。

 

 

その中で、特に聞けてよかったなーと思ったのが、篠田さんの

「自分にはあまり感謝の気持ちがない」という言葉だ。

 

ここだけを切り取ると、冷たい人間なのかと思ってしまうが、

その言葉の背景には「人間は皆、あるがままに生きている」という考え方がある。

 

人間はそれぞれ好きなように行動していて、その結果、他の人が助けられたりすることもあるが、それはあくまで自然な成り行きの結果であって「感謝の念を抱く」ということもないのではないか、ということだ。

 

 

僕自身も、こんな匿名のブログでしか言えないが、あまり感謝の気持ちを抱いたことがない。

 

感謝の気持ちがないことに対して、「自分は冷たい人間なのか」とここ最近は悩んでいたが、篠田さんの言葉を聞いて安心した。

 

 

もちろん何かをしてもらったら僕も礼儀として「ありがとう」と言うようにはしている。

 

これは「相手のための嘘」に近いもので、たとえ本心でなかったとしても「ありがとう」と言われたら嬉しいし、相手が「自分のやったことは良かったんだ」納得できるから「ありがとう」と伝えるようにしている。

 

 

ふと思ったが、感謝というのは気持ちよりも「マナー」に近いのかもしれない。

 

例をあげるなら、「ありがとう」と伝えることは「お年寄りに席をゆずる」ことに近いものがある。

 

 

混雑したバスの中で立っているのは、いくら若い人でもしんどい。

 

でも、しんどいけど、自分よりもっとしんどい思いをしてるお年寄りがいたら席をゆずる。

 

本心(純粋な気持ち)は「しんどい」だけど、それでも相手のためを思って席をゆずる。

もしくは「人に良く思われたいから」席をゆずるのかもしれない。

 

 

・・・例をあげてみたが言いたいことが言えてない気がする。

 

言いたいのは、大事なのは「感謝の気持ちを持っている」ことではなく、「感謝していることを伝える」ということなのかな。

 

いくら「席をゆずるべきだ」と内心思っていても、結局ゆずっていなければ、意味がないということだ。

 

僕は「ゆずるべきだ」と思ってなくても、気まぐれにゆずってみた人を評価したい。

 

 

ここまで感謝について論じてきたが、感謝の1つ上の概念には「ギブアンドテイク」というものがあると思う。

 

人がうまく人間関係を構築したり、うまく生きていくためには「感謝すべき」というより「ギブアンドテイクすべき」と言いたい。

 

 

よくYahoo!知恵袋などで、「旦那が感謝してくれなくて不満」という主婦の悩み相談をみるが、これは「感謝がないから」というよりも、単に旦那がギブアンドテイクのバランスを崩しているだけだと思う。

 

主婦は家庭の中で、料理や洗濯や掃除をあくせくと行なっているのに、旦那はそれを手伝うこともせず、むしろ「料理がまずい」だのと文句を言う。

 

 

もちろん旦那は経済的な面で家庭を支えているのだから、本来はギブアンドテイクをしているといえる。

 

ただ、主婦は旦那が仕事で努力している姿を見たことがなく、家でふんぞり返ってる姿しかみることがない。

対して、旦那は主婦の努力を目にしているはずだから、ここで心理的なアンバランスが生じる。

 

客観的にはギブしているけど、主婦目線ではあたかもギブしていないように見えてしまう。

 

だから、旦那は本心からでなくていいから妻に「ありがとう」と伝えるべきなのだ。

関係を壊さないために。

 

 

自分で書いていてかなりスッキリした。

 

「感謝の気持ちを持て」なんて言われてもないものはないんだからどうしようもないと思っていたが、「ギブアンドテイクしろ」と言われたら、誰でも心がけ次第でできると思う。

 

人間が本能を理性で抑えているように、その気持ちはなくともしてもらったことに対してお返しをする。

 

僕はその方がよっぽど人間的だと思うのだ。

 

 

今はまだ感謝の気持ちが沸き起こる感覚を味わったことはないけれど、年をとればそのように感じるようになってくるのかもしれない。

 

他の人にも「感情として、嬉しいとか悲しいとかと同じように、感謝の気持ちを感じたことはある?」と聞いてみたい。

 

ただ下手したら逆に聞き返されて、「冷たい人間だ」と誤解されてしまうかもしれないから、こういう話題こそネットで聞くことなのかもな。

 

そういうわけなので、何かコメントをくだされば喜びます。

 

それでは。