大学で学ぶ意義を感じた授業

naisei.hatenablog.com

 

この記事に書いた「2限になったら人がいなくなる授業」を受けてきた。

 

かなり面白くて、4年生になってようやく大学で学ぶ意義というものがわかってきた気がする。

 

 

大学で学ぶ意義とは、「インプットの質を上げること」だと思う。

 

意義を語る前に目的が必要だが、僕は就活生なので「仕事での成功のために」ということで考えていきたい。

 

 

典型的に大企業で管理職になれるのは、ほとんどが大卒であるという。

 

それがなぜなのかを、今までは「大卒=高卒より頭が良い=優秀?」という短絡的な文脈で捉えていた。

 

今回は、その「優秀」というのはどういうことなのかを掘り下げる。

 

 

優秀と認められるには、「大きな成果を出すこと」が必要である。

そして大きな成果(アウトプット)を出すためには、質の高いインプットが必要だ。

 

大学で真剣に学べば、「質の高いインプット」ができるようになるのではないか、というのがふと思ったことであり、僕の仮説。

 

 

僕が先ほど受けた授業は「外国書購読」という名前で、海外の論文を和訳した上で解釈するというものだ。

 

要は、自分で海外の文献を調べ読めるようになり、専門知識を自ら取り入れられるようにするというのがこの授業の趣旨である。

 

 

題材はポーター仮説で、理解するためには経済学の知識が必要となる。

 

僕は経営学部生なので、ミクロ・マクロ経済学の基礎は1年生のときに学んだが、正直ほとんど知識がないようなものだ。

 

今日の授業では、「そもそも科学とは何か、社会科学と自然科学の違いは何か」という大前提から遡って解説してもらえたので、最終的には具体的な回帰分析のモデル(最小自乗法)まで理解することができた。

 

 

前提となる知識が頭に入っていれば、具体的なモデルの説明などをされても論理が頭の中で繋がるので、今までにない「面白さ」を感じながら講義を受けられた。

 

そのときに、「ああ、こういう専門的な論文とかを咀嚼しようと思ったら、大学でしっかり学ばないとダメだな」と4年生にしてようやく気づくことができたのである。

 

 

「質の高いインプット」に話を戻すと、「質が高い」とは言い換えれば、

「誰もが入手できたり、理解できる情報ではない」ものであったり、

1つの情報に当たったときに「どれぐらいのレベルで理解できているか」ということだと思う。

 

社会人でいえば、本格的に学問を修めていない高卒の人は、書店にあるわかりやすいタイトルの付いたビジネス書の内容などからしかインプットすることができないが、

大学でしっかりと学んだ人は、一般人が理解できない論文から情報を得たりできる。

 

また、同じビジネス書を読んでも、頭の中にある前提知識の多さや、論理的思考力などの違いから、大卒の方が深いレベルで理解することができるだろう。

 

これが、インプットの差であり、この差が積み重なって、それぞれの「アウトプットの限界」が決まるのだと思う。

 

 

もちろん、仕事の中でも学問ではどうにもならないものがある。

 

例えば、営業職なんかは天性のコミュニケーション能力やルックスの良さなどがあれば、大卒との差なんて目じゃなくなるだろう。

 

スポーツや芸術も才能の要素が大きいから、いくら理論を知ったところで天才には勝てない。

 

 

先ほど教授に教わったが、そもそも科学というのは「誰でも再現できる理論」を導き出すものであるから、

社会科学を学んで得られるスキルというのは誰が学んでも武器になるから「打てば響く」ものであると言える。

 

ただし、もっと影響力の強い先天的な要素(才能)を持つものには太刀打ちできないということだろう。

 

 

うまくまとまっていない気がするが、大学で学ぶことで得られるのは

・幅広い分野の知識のシャワー

・専門的な文献の読み方

・レポートなどを通して得られる論理的に書く力

・講義や文献を咀嚼することを通して得られる論理的思考力

などであり、

こういったものが「インプットの質を上げる器」になるのだろう。

 

そう考えれば、「どの分野を専攻するか」ということよりも、どんな分野でも「どれぐらい真剣に4年間学んだか」ということの方が、社会に出てから活躍する上で重要なのではないかと思う。

 

とにかく、今日からいっそう真面目に勉強します。

 

 

 

 

感謝について その3

「感謝の気持ち」が沸き起こることはあるのか? - 内省の日々

 

感謝についての続き - 内省の日々

 

しつこいようだが、夕食をとりながら思いついたことがあるので書く。

 

 

2つ目の記事で、本能的な欲求と理性的な欲求があって、どちらの欲求に従った行動を「あるがまま」とするのか、と書いたが、マズローの欲求5段階説を用いれば済むことだった。

 

前回述べた「理性的な欲求」(お年寄りに席を譲る人間でありたい)は、

マズローの言う「尊敬・評価の欲求」もしくは「自己実現の欲求」に当てはまる。

 

また、欲求5段階説では、基本的には下から順に満たされていくが、もし下の欲求が満たされていなくても、上の欲求を求めることがある。

 

例えば、職がなくてロクに食えていない状態でも、愛情を求めたり、名声がほしいという気持ちは多少なりともあるはずだ。

 

参考ページ:

改めて「マズローの欲求5段階説」を知って人生のモチベーションを高めよう

 

 

つまり、人間が「あるがまま(やりたいよう)に行動する」というときには、

本能的なものから理性的なものまで含まれると言えそうだ。

 

そう考えれば、「人に何かをしてもらったとき」というのは、その人がなんらかの理由(欲求)で「それをやりたかったからだ」ということになる。

 

 

それを踏まえて、「人はどういうことをしてもらったときに、心が動かされて感謝の気持ちが芽生えるのか」ということを考えたい。

 

 

心が動かない例としては、「ビジネスとして」何かをしてもらったときがあげられる。

 

目的地まで乗せてくれたタクシーの運転手に「ありがとう」と言いはすれど、じわ〜っと感謝の気持ちを感じたりすることはないだろう。

 

お金という「対価」を払う以上、運ちゃんがお客を運ぶのは「義務」だから、

単なる「取引」だと普通は考える。

 

 

欲求という意味なら、運ちゃんは「お金がほしいから」乗せて行った。

 

さすがに「お金がほしいからやりました」という人に感動することはないだろう。

 

 

逆に心を動かされるときというのは、見返りもなしに(対価なしに)何かをしてもらったときではないだろうか。

 

道端で急にお腹が痛くなってうずくまっていたら、「大丈夫ですか?」と通りすがりの人に声をかけてもらえた。挙句の果てに介抱までしてもらえた。

 

こんなことがあれば、誰でも「ありがたいなー」と感謝の気持ちを抱くことだろう。

 

 

さっきの欲求説を踏まえれば、助けてくれた人は何かの欲求があってしてくれたといえる。

でも「お金がほしい」とか自分のための行動とは考えづらいから、優しさを感じて、感謝の気持ちが芽生えるのだろう。

 

 

こういうときに、助けてもらった側の心理状態をもう少し分析すると、

「優しくしてもらって嬉しい」という気持ちと、「助かったーという安心感」と「こっちは何もしてないのに、申し訳ない」という気持ちが入り混じっている。

 

で、「ありがとう」と言いたくなる元は、3つ目の「申し訳ない」という気持ちからきてるんじゃないか。

 

言いかえれば、「テイクだけして、相手にギブできていない状態」に居心地の悪さを感じているということだ。

 

今すぐには何かお返しできないけど、少なくとも「あなたのおかげだ」ということを伝えたいから、「ありがとう」と言う。

 

 

もちろん、さっきも言ったように「申し訳ない」気持ちだけではないと思う。

 

感謝するときに出てくる涙は、「嬉しい」とか「安心感」からきているものだろう。

 

ただ、それらの中でベクトルが相手に向かっているのが「申し訳ない」という気持ちではないかということが言いたい。

 

 

グダグダと書いたけど、感謝が足りない人は、相手に「申し訳ない」と感じていなくて、「与えてもらって当然」という考えでいるからなんじゃないかな。

 

<これをしてもらえて当たり前>

のその「当たり前」の基準がどこにあるのか、そこが感謝の気持ちを持つかどうかの分かれ目なんだろう。

 

自己啓発本に書かれていた、

『「有難い」の反対は「当たり前」である』というのはこういうことだったんだな、と理解できた気がする。

 

 

P.S.

文章の語尾を自然な形にするのって難しい。だろう、だろう、としつこい文章になってしまった。

 

あと、やっぱり論理構成がめちゃくちゃだ。

ちゃんとノートに下書きしたりしてから書くべきなんだろうけど、思いついたままに書くとこうなる。でも下書きするのはめんどくさい。

 

ふだん本やブログで読んでるわかりやすい文章のすごさを改めて感じた。

なぜ(僕の学部の)学生は授業を真剣に聞かないのか

 

今日は午前中に1・2限の連続授業があって、今は昼休みだ。

 

1限の授業には出席点があるが、「2限は出席を取らない」と教授が言うと、

僕以外の学生は帰ってしまった。(1限は20人ぐらいいた)

 

2限は補足的な内容なので、授業に出なくてもテストで点は取れる。

 

1対1で講義を受けられたので、質問できたり、教授と小話ができて

濃い学びがあったので結果的には良かった。

 

 

しかし、なぜうちの学部の学生は熱心に授業を受けないのか疑問に思った。

 

ちなみに僕は経営学部で、教授が自称するところによれば

経営学分野で日本最高水準の教授陣を揃えている。

 

本来ならもっと熱心に学ぶ学生がいてもいいはずだ。

(もちろん一定数は存在している)

 

 

前にも書いた気がするが、うちの教授は「なぜこれを学ぶのか」という講義の目的を話すことがあまりない。

 

学ぶ側のモチベーションを高める要素として、学ぶ意義を伝えることは重要なはずなのにあまり話されない。

 

これがなぜなのかと長らく疑問に思っていたが、今日の教授との小話で少し見えてきたものがあった。

 

 

理由は大きく2つあると思う。

 

1つは、学生が大学に学びに来る目的が多様であること。

 

僕みたいに「①起業したくてビジネスを学びたい」という人もいれば、「②会計学を学んで公認会計士になりたい(資格を取りたい)」人や、「③経営学部は就活で潰しが効く」という人、「④学者・研究者になりたい」という人もいる。

 

パイの大きさとしては③の層が圧倒的に多いように思う。

 

(入学前のイメージでは①の人が多いのかなと思っていただけにがっかりした)

 

このように、学ぶ側の目的が多様だから、教える側も「このために学ぶ」と明確に定義することが難しいのだろう。

 

 

もう1つは、学部として「学部生にどうなってもらいたいのか」というビジョンが明確に定まっていない、もしくはうまく浸透していないこと。

 

ビジョンのあるなしでどう変わるのかというと、

例えば、「花を育てること」を学ぶ学部があったして、「とにかく大きな花を咲かせられる人材を育てる」というビジョンが学部レベルで設定されていれば、「水のやり方」や「肥料の使い方」などの個々の授業も、同じ方向を向いた話になるはずだ。

 

学生側も「大きな花を咲かせるために、これを学んでいるんだな」と分かるから、意欲を持って学ぶことだろう。

 

 

入学時のガイダンスで、学部長がこういった話をしていた気がするが、

経営学の知識が皆無で、かつ「偉い人の退屈なオハナシ」と思っていた僕らには到底伝わらない。

 

だから、学ぶ目的をうまく設定できない僕らは、「単位を取ること」を第一目的にして授業を受けることになってしまう。

 

今朝の例も、「出席点がないから」みんな帰ってしまったのだ。

(資格試験の勉強をしたいとか、他の授業の宿題がある人もいるだろうが)

 

 

ではこの「学ぶ目的の見えない学生たち」を減らすにはどうすればいいのか。

 

根本から変えるには、大学ではなく、小中高の教育まで遡らなければいけないように思う。

 

どこかのタイミングで、大学での学びについて情報を与えてもらえていれば、

ある程度は目的を持って学べる学生が増えるのではないだろうか。

 

 

僕なんかは、「金持ちになりたい→社長になればなれるかも→社長=経営者→経営学を学ぼう」というかなり短絡的な理由だったが、経営学を学ぶ強いモチベーションになっていた。

 

大学に入ってからは、たくさん本を読んだり、賢い友達に出会ったり、教授の話を聞いたりしているうちに徐々に「金持ちになりたい」以外の学ぶ目的が定まっていった。

 

 

ただ、僕みたいに考えを巡らすのが好きな人は自然とそうやって学ぶ目的を見つけていけるのだろうけど、そうじゃない人たちはなかなか難しいんじゃないのか。

 

特に③の「潰しが効くから」という理由で選んだ人などは。

 

 

今のところ解決策はあまり分からないが、いち学生でも何か変えられる部分がないか

引き続き考えていきたい。