善意と悪意

 

「その人の本性を知るには、言葉ではなく行動を見るべきだ」

 

という考え方がある。

 

僕はずっと「たしかにその通りだな」と思って人を見るようにしていたが

大学で様々なことを学ぶ中で、

「これは違うんじゃないか」と思い始めた。

 

 

行動それ自体ではなく、その行動の裏にある「意図

にこそ、その人の本性があらわれるのではないかと思う。

 

言い換えれば、「善意によって取られた行動」なのか

「悪意によって取られた行動」なのかということである。

 

 

何が善で、何が悪であるかを一般化するのは難しいが

個人それぞれがもつ道徳基準の中で、「これは善だ、悪だ」という感覚は

なんとなく存在していると思う。

 

(余談だが、最近よく話題になる「サイコパス」というのは

個人の道徳基準が他の人と大きく乖離している点で

やっかいな存在であるといえる)

 

人は、自分の道徳基準によって「善だ」とみなされる行動を

基本的にはとっていると思われるが、

その人の本性は「なぜそれが善であるか」という理由に隠れている

ということが言いたい。

 

 

ここまでで、論理構造がややこしくなってしまったが、

意図というよりも「道徳基準」に本性があると言った方が正確かもしれない。

 

わかりやすい例をあげるならば

「人を殺すことが善だ」と思っている人が犯す殺人と

「人を殺すことが悪だ」と思っている人が犯す殺人

が起きたときに、「人を殺した」という行動だけでその人を判断してしまうと

大きく見誤ってしまうことになる。

 

これでは猟奇殺人犯と正当防衛が同じ扱いになってしまう。

 

 

あまり詳しくないが、殺人が起き、刑の重さを決めるとき

犯人の動機や計画性に重点がおかれる。

 

なぜならば、そこに犯人の道徳基準が内包されているからである。

 

道徳基準はその人の根っこであり、今後大きく変わることはない。

 

根っこに毒性があるならば、また新たに毒のある果実が実る、

つまり「再犯性がある」と判断されることになる。

 

 

行動だけで人間性を判断することができないとなれば、

対比される「言葉」の方はどうなのか。

 

悪意と善意という基準でみれば、

「悪意のある言葉」「善意のある言葉」も同じように存在している。

 

人はイヤミを言うこともあれば、優しい言葉をかけることもあるのだ。

 

 

では、言葉も行動も結局本質は同じではないかと思ってしまうが

「意識と無意識」という観点で考えれば少し性質が違ってくる。

 

ごく普通の人が殺人を犯してしまうように、

行動には衝動性、つまり、意識下ではコントロールできない部分がある。

 

対して言葉は、行動よりも意識的なものではないだろうか。

より冷静なものであるともいえる。

 

 

そう考えれば、言葉の方がより冷静な状態で発せられる点で

その人の人間性をよくあらわすのではないだろうか。

 

冷静でない状態は、しばしば「自分を見失う」と表現されるように

衝動性の帯びやすい行動は、人間性を判断するには不向きではないだろうか。

 

 

もう自分でも、何を論じたいのかよくわからなくなってきたので

この辺りで締めようと思う。

 

論理がガタガタなので、読んでくれた人は

僕が何を言いたいのかよくわからなかったかもしれない。

 

ただ、少しでも何かを考えるきっかけぐらいになればと思う。

 

 

そもそもこの記事も、民法の勉強をしているときに

「善意」というキーワードが出てきて、

そこから考えが始まったものだった。

 

また何か思いついたら好きなように書きます。

 

集団を変えるには

 

最近、生活の中でテーマにしていることがある。

 

「自分から動くこと」だ。

 

 

先日UVERworldのライブに行ったときのこと。

 

一般販売の余りチケットだったので、

ステージからはかなり遠い席だった。

 

アリーナ席と比べると、やはり観客の熱量が低い。

 

 

僕だけかもしれないが、合いの手を入れるにも

周りが静かだから、つい恥ずかしくなって

自分も大人しくなってしまう。

 

でもそれじゃあ楽しくない。

 

そんな時に思ったのが、

「じゃあ自分が1人で盛り上がれば、

 隣の人もつられて盛り上がってきて

 それがどんどん広がっていくんじゃないか」

ということ。

 

 

盛り上がってるアリーナ席の方だって、

誰かが最初に口火を切って盛り上げ始めたはずだ。

 

今までは無意識のうちに

「最初の誰か」が現れるのを待っていたが、

それでは何も変えられないんだと気づいた。

 

 

大学に通っていても、

「最初の誰か」が現れる場面がたくさんあることに気づく。

 

通学バスの中で、「次とまります」ボタンを押す人。

 

グループ学習で、「あなたはどう思う?」と投げかける人。

 

講義の終わりの質問タイムで誰も挙げない中、手を挙げる人。

 

 

一方で、待っているだけの人たちは

「誰か止まるボタン押せよ」

「誰か話し始めろよ」

「誰か手あげろよ」

と思いながらも、自分は何もしない。

 

 

本当に根っからの人任せで、

強制されないとやらない人は仕方ないのかもしれない。

 

でも、心のどこかで「自分がやるべき」だと思っているのに

勇気が出なくてやれない人がいるのはもったいない。

 

 

なら、まずは僕が勇気を出して「最初の誰か」になれば

その姿を見て、「自分もやってみよう」と思う人がきっといるんじゃないか。

 

そうやって、1人の行動の影響が波紋のように広がって

集団が変わっていくのだと思う。

 

書く自信

 

前回の更新から1ヶ月半過ぎてしまった。

 

書こうかなと思ったときもあったが、

なぜか書けなかった。

 

 

僕は学ぶのが大好きな人間なので、

人のブログや本を大量に読む。

 

「ためになるなあ」と思いながらも

「自分はこんなにうまく書けない」

と比較して自信を失ってしまうことも多い。

 

 

今は個人が情報発信をしやすくなり

これまで隠れていた論客がどんどん出てきている。

 

イケダハヤトやはあちゅうなど

「ブロガー」を名乗る人も増えてきて

まさにブロガー戦国時代だ。

 

そんな中で、自分の意見はどれぐらい有用なのか

どうしても考えてしまう。

 

 

どの分野においても、食っていくためには

競争を勝ち抜いていかないといけないと思う。

 

アーティストしかり、営業マンしかり、学者しかり。

 

 

「ナンバーワンじゃなくて、オンリーワンを目指せ」

なんてよく言われるけど、

ただのオンリーワンでは食っていけないんじゃないか。

 

例えば、「パンツ一丁で講義をする大学教授」は

オンリーワンかもしれないけど、

だからと言って生徒に価値を与えられているわけではない。

 

話が抜群に面白いとか、講義資料がすごくわかりやすいとか

そういう軸でオンリーワンにならないと意味がない。

 

「ナンバーワンになれるようなオンリーワン」

じゃないといけないということだ。

 

 

「ブログを書く」ということに戻ると、

他の人よりも質が高く

かつ

価値を感じてもらえるようなコンテンツは何か。

 

そういうことをつい考えてしまうから、

こんな100人も見ていないブログの記事を書くことに

躊躇してしまう。

 

 

僕は80年ものうのうと生きるつもりはないし、

そんなに長く生きられるとも思っていない。

 

だって、信号をひとつ渡るたびに

暴走した車が突っ込んでくるかもしれないから。

 

今日の帰り道に死んでしまう可能性もゼロじゃない。

 

 

でも、死ぬまでに何かを残したいと強く思う。

 

自分はまだまだ未熟で、考えも知識も経験も全然足りてない。

 

そんな現状で、自分はいったい誰の役に立てるのか。

 

 

今は力がないから、

目の前にある小さなことから始めていかないといけないのだろう。

 

それはわかっているのだが、

その「小さなこと」の積み重ねが

後の「大きなこと」になるのであれば、

何を積み上げていくのかも考えないといけない。

 

 

悩みは尽きないけど、こうしてブログを書くことで

やはり自分の頭の中が整理されてくるので、

また定期的に書こうと思う。

 

本当にわからないことだらけなので、

記事を読んでいて「こうなんじゃないか」と思った

好きにコメントしてください。

 

それでは。