内省の日々

とある学生の頭の中

書く自信

 

前回の更新から1ヶ月半過ぎてしまった。

 

書こうかなと思ったときもあったが、

なぜか書けなかった。

 

 

僕は学ぶのが大好きな人間なので、

人のブログや本を大量に読む。

 

「ためになるなあ」と思いながらも

「自分はこんなにうまく書けない」

と比較して自信を失ってしまうことも多い。

 

 

今は個人が情報発信をしやすくなり

これまで隠れていた論客がどんどん出てきている。

 

イケダハヤトやはあちゅうなど

「ブロガー」を名乗る人も増えてきて

まさにブロガー戦国時代だ。

 

そんな中で、自分の意見はどれぐらい有用なのか

どうしても考えてしまう。

 

 

どの分野においても、食っていくためには

競争を勝ち抜いていかないといけないと思う。

 

アーティストしかり、営業マンしかり、学者しかり。

 

 

「ナンバーワンじゃなくて、オンリーワンを目指せ」

なんてよく言われるけど、

ただのオンリーワンでは食っていけないんじゃないか。

 

例えば、「パンツ一丁で講義をする大学教授」は

オンリーワンかもしれないけど、

だからと言って生徒に価値を与えられているわけではない。

 

話が抜群に面白いとか、講義資料がすごくわかりやすいとか

そういう軸でオンリーワンにならないと意味がない。

 

「ナンバーワンになれるようなオンリーワン」

じゃないといけないということだ。

 

 

「ブログを書く」ということに戻ると、

他の人よりも質が高く

かつ

価値を感じてもらえるようなコンテンツは何か。

 

そういうことをつい考えてしまうから、

こんな100人も見ていないブログの記事を書くことに

躊躇してしまう。

 

 

僕は80年ものうのうと生きるつもりはないし、

そんなに長く生きられるとも思っていない。

 

だって、信号をひとつ渡るたびに

暴走した車が突っ込んでくるかもしれないから。

 

今日の帰り道に死んでしまう可能性もゼロじゃない。

 

 

でも、死ぬまでに何かを残したいと強く思う。

 

自分はまだまだ未熟で、考えも知識も経験も全然足りてない。

 

そんな現状で、自分はいったい誰の役に立てるのか。

 

 

今は力がないから、

目の前にある小さなことから始めていかないといけないのだろう。

 

それはわかっているのだが、

その「小さなこと」の積み重ねが

後の「大きなこと」になるのであれば、

何を積み上げていくのかも考えないといけない。

 

 

悩みは尽きないけど、こうしてブログを書くことで

やはり自分の頭の中が整理されてくるので、

また定期的に書こうと思う。

 

本当にわからないことだらけなので、

記事を読んでいて「こうなんじゃないか」と思った

好きにコメントしてください。

 

それでは。

 

目上・目下のコミュニケーション

 

相変わらずコミュニケーションについての悩みは尽きない。

 

平日は毎日大学に通うようになったので、

知り合いと食堂でランチをする機会が増えた。

 

同い年の友達は、まあ無難に話せているなと思うのだが

年上、年下とのコミュニケーションはどうも難しく感じる。

 

 

僕は年の上下だけで尊敬したりされたりするのは違うと思っているので

「下級生には上から目線で、上級生にはへり下る」

という態度がどうも気にくわない。

 

とはいえ、ずっとそういう文化の中で過ごしてきたせいか

無意識のうちに僕も下級生に対して上から目線になっていたりする。

 

 

今日は1つ上の上級生とお話したが、

僕に対して「教えている」という姿勢が常にある。

 

もちろん僕にプラスになるものを与えようとしてくれているのはわかるし、

ありがたいことだとは思う。

 

ただ、高校生と小学生というほどの差ならまだしも

大学の学年が1つ違うことなど微々たる差でしかない。

 

一方、僕に対する下級生の子も同様で、

僕が上級生だからという理由だけで

本当は言いたいことがあるのに

何かをこらえて接してくれている気がする。

 

 

この国の「年上には敬語を使う」という文化は

コミュニケーションに自然と「上下の関係」を発生させてしまう。

 

この上下の関係が生産性のある会話を妨げていると思う。

 

僕ら日本人の年上、年下の話し合いにおいて

年上の意見は「正しい」し、年下の意見は「未熟である」

というような意識がどこかにあるのではないだろうか。

 

 

仮にAさん(20歳)とBさん(30歳)の会話があったとして、

一般的にはこう考えられる。

 

「Bさんの方が10年も長く生きているのだから

 Aさんよりもまともな意見を持っているだろう」

 

(細かい設定はおいておく)

 

 

だが、ここで忘れがちなのは

AさんとBさんはこれまでに違う環境で育ち

違う経験をし、違う知識を得ているということだ。

 

小学生の経験の積み上げは大したことないかもしれないが

20年も積み重ねれば、必ずBさんよりも優れた分野があるはずだ。

 

もちろん物事に対する感性や考え方も

人によって全然違う。

 

 

このような前提を無視して、

「年上は年下よりも人として上なんだ」

という固定観念をもつのは残念きわまりない。

 

ちなみに僕はいま高校2年生の家庭教師をしているが

僕からすればその子は尊敬できる面をたくさん持っている。

 

だから、命令するような口調では絶対に教えないし

常に「一緒に知恵を絞ろう」というスタンスで指導している。

 

 

この会話様式はもはや日本の文化なので、

「明日から敬語禁止!」なんていうのは無謀な話だ。

 

少なくとも僕は年の差は関係なしに

「一人の人間として尊重する」

という態度を忘れないようにしたい。

 

 

【余談】

 

アメリカがあれだけ発展したのは

英語が基本的に上下を感じさせない言語だからではないだろうか。

 

個人の尊厳が重視され、

年齢差があってもフランクな会話ができるアメリカ人は

日本よりよっぽど率直に意見交換ができるのだろう。

 

英語にもアメリカにも詳しくないので

ただの推測でしかありませんが・・・

 

 

「コミュニケーション」というゲーム

 

今日は友人と『何者』の映画を観に行った。

 

映像化されたものをみると、

やはり小説よりは具体性がないので

ダイジェストを観ているようだった。

 

ただやはり、5人の人間模様の底に流れる嫌な感じは

映像化されることでより感じられた。

 

 

作品の中で主人公の拓人が

『就活はダウトのようなもので、

 自分のカードをいかによく見せるかで

 成否が決まる』

と言っていた。

 

これは人とのコミュニケーションにおいても

言えることだと思った。

 

 

1対1で話す場面を想像すると、

お互いのプレイヤーは

様々な知識や経験(話す内容)を持っている。

 

その中で、相手に対してどのカード(知識、経験)を

提示するのかを決める。

 

カードの選び方、出し方(話し方)は

相手をどうしたいのか、その目的によって変わる。

 

説得したいのか、共感を得たいのか、攻撃したいのか。

 

もちろん相手も同じようにカードを繰り出す。

 

そのカードの出し合いによって、

「会話」が生まれる。

 

 

こう考えると、会話とはゲームであり

必ずしも会話内容だけでその人の「人間性」が

判断できるとは限らないことが分かる。

 

なぜなら、相手が話したことは

その人のほんの一部でしかないから。

 

また、好きな子を口説くときと友人と話すときは

内容も話し方も、まるで別人のようになるだろう。

 

嫌いな相手と好きな相手にしてもそうだ。

 

 

会話することで、「こいつはこんなやつだ」と

ついわかった気になるが、

その人がそれまでに積み重ねてきた経験や知識の一部しか

アウトプットされていないのだから簡単には判断できない。

 

その会話の目的や話し相手との相性や立場の違いにおいても

人間は柔軟にコミュニケーションの仕方を変えることができる。

 

 

就活の面接で「1分間で自己紹介してください」だとか

「あなたの強みを教えてください」だとかは

その人のほんの一部を垣間見ることでしかない。

 

『何者』のラストシーンで拓人は

「1分間で自己紹介してください」と面接で問われる。

 

5分ほど話した後、

「すみません、1分間では語りきれません」

と言ったのも至極まっとうなように思える。

 

 

こんなことを考え始めると

では自分が今、「好きだな」と思っている人物は

たまたま自分にとって都合の良い面を見せているだけなんじゃないか

とか考えてしまう。

 

 

とりあえずそれは置いておいて、

人間関係をうまく構築するには

「会話というゲーム」をうまくプレイすればいい。

 

まずは相手をどうしたいのかという目的を設定する。

 

その目的を達成するために必要なカードを

自分の知識・経験から引っ張り出し、

相手に合わせて加工する。

 

相手に合わせるとは、

相手の目的・知識レベル・背景(経験)・自分との関係性

などを把握することだ。

 

 

もちろんこんな理論があったところで

会話を完璧にコントロールできるかといえば

それは無理だ。

 

ただ、自分の知識や経験を増やすことで

自分のカードを増やすことができ

より多くの場面に対応することができるのではないか。

 

 

そう考えると、

読書や映画鑑賞や勉学などが役に立つ側面の一つは

「コミュニケーションの幅を広げる」

ことであると言える。

 

(チープな結論ではあるが・・・)

 

 

僕は前々から「目的のない会話」(いわゆる雑談)

が苦手だと思っていたが

単に目的の設定の仕方がうまくなかったということだろうか。

 

相手に好意を持ってもらうため、とか

悩みを解決する情報を得るだとか

いくらでも会話の目的は設定できる。

 

そして、目的を設定すれば、

その方向に会話を誘導することもできる。

 

 

ただ、難しいのは相手の目的を把握することだ。

 

僕は人と話していて、

なんで僕と話してくれるのか気になるし

相手にとって有益な時間になっているのか心配になる。

 

時間は貴重なものだから、

相手が他にやりたいことがあるのにも関わらず

自分との会話に縛り付けるのは気がひける。

 

もしかしたら相手はそんなにクソ真面目に

会話の目的とか考えていないのかもしれないけど

どうしても気になってしまう。

 

 

話が二転三転してしまったので

そろそろ終わりにする。

 

会話というのは奥が深いものだなと書いていて思った。 

『何者』

 

朝井リョウの『何者』を読んだ。

 

来年、5回生として就活する僕にとって

とても気になっていた作品。

 

読み終わった直後は爽快感があったが、

読後から2日たった今、

じわじわとこの作品の毒が牙をむきはじめた。

 

 

僕を登場人物にあてはめると

大学1年〜3年:リカ、たかよし

大学4年(現在):拓人

だと思った。

 

また、光太郎の「カメレオン」のような

人付き合いの模様は僕自身とも重なる。

 

 

たかよしの意見は、僕が同級生や家族に

偉そうな口調で話したことと酷似していた。

 

リカのように「学生団体の代表」として

名刺を配ったり、

Facebookに自慢げに活動をアップしたりもしていた。

 

Facebookの投稿を読後にいくつか消した)

 

そして、リカやたかよしの言動を今では少し

「痛い」と感じている自分は

拓人であるとも言える。

 

 

意識高い系女子のリカは最後に

「かっこ悪いままでも頑張るしかないんだ」

という趣旨の発言をする。

 

これは朝井リョウが若者に伝えたかった

結論なのだとも捉えられる。

 

たしかにそうだ、と読んだ直後は

勇気付けられると共に清々しい気持ちになった。

 

 

しかし今は、

心に靄がかかったような状態に陥っている。

 

拓人、たかよし、リカの生き方は

端からみると痛かったり、かっこ悪かったりする。

 

僕も読んでるときは

「痛いなー、こいつら」

と思っていた。

 

けど、とても他人事のように思えない。

 

 

僕の大学生活に当てはめてみると

1年〜3年までは、たかよしやリカのように

「何者」かになろうとして背伸びした活動をしていた。

 

4年生になった今、その活動から少し離れて

過去の自分を「青かったな」と思うようになった。

 

でも、青かったけど

「他の学生よりは価値ある知識や経験を積み上げた」

という変な自信は残っていて、

それが自分を大なり小なり支えていたように思う。

 

 

でも、結局たかよしやリカの活動は

『何者』でもない、いち学生の単なる背伸びであり

「すごそうに見せてるだけ」なんだと

朝井リョウに言われた気がして

 

じゃあ僕が3年間、

楽しいキャンパスライフから目を背けて

時間もお金もエネルギーも注ぎ込んできたのは

いったいなんだったんだろう

という虚無感に襲われる。

 

 

意識の高い活動をやめて単位を取るために

毎日大学に通っていると

嫌が応でも「大学生活を満喫している学生たち」

の姿が目に入る。

 

僕の4年間には無かった、楽しい毎日。

 

 

それで劣等感や孤独感が刺激されて

ここ2週間ほど

彼女を作ろうとエネルギーを費やしてみた。

 

 

でも、ぜんぜんうまくいかない。

 

今日もカレンダーにアラート機能をつけた

「デート」の予定を入れていたが

見事にすっぽかされた。

 

本当ならショッピングモールで楽しんでいたはずの時間に

静かな部屋でパソコンをカタカタしている。

 

やっぱり、なんだか虚しい。

 

 

モヤモヤを吐き出したくて

半分グチのような形で書かせてもらった。

 

『何者』ほど良い意味でも悪い意味でも

心を揺さぶられた作品はなかった。

 

作品を読み終えた後でも

いつまでも「現実の世界」に戻らせてくれない。

 

本当にナイフで刺されたように

血が止まらない。

 

 

この作品は人に勧めるべきか、とても迷う。

 

『白夜行』

 

白夜行」という2006年に放映されたドラマを観た。

 

東野圭吾の小説が原作である。

 

 

とても考えさせられる内容だった。

 

主人公の亮司とヒロインの雪穂は

お互いを幸せにするために罪に罪を重ねていく。

 

 

しかし、その「幸せ」とは一体なんなのか。

 

本人たちにもわからないし、

登場人物も視聴者である僕もわからない。

 

亮司は多くの犯罪を犯した。

それ自体は許されるべき行為ではない。

 

しかしその動機は、悪意ではなかった。

ただ雪穂のためを思ってやったのだ。

 

 

このお話は、誰が悪いのかもわからず

どうすれば良い結末を迎えられたのかもわからない。

 

正解はわからないけど、

登場人物の生き様や葛藤をみて

 

「生きる」とはどういうことなのか

「愛」とはなんなのか

言葉では言い表せないものを感じさせられた。

 

 

世界観に入り込みすぎたせいで

とても複雑な気分になっている。

 

でも、観てよかったと思う。

 

改めて、自分はどう生きるべきなのか

深く考える機会になった。

 

子どもができたら、ぜひ観せたい作品の一つである。

余裕をもつこと

今月は浮き沈みがとても激しい。

 

新しいプロジェクトを始めたり、

禁欲に挑戦してみたり

恋人探しを始めてみたり・・・

 

そして今週末に

色々と我慢していたものが噴き出して

やる気がなくなったり、散財したりした。

 

 

やはり生活には余裕、余白が必要だと感じた。

 

僕にはあくせくと働く毎日は

性に合わないと気づかされた。

 

そこそこの収入でいいから

ゆったりと過ごせる時間がほしい。

 

 

映画と本と音楽があれば

必要な刺激は得られる。

 

あとは人付き合いと旅かな。

 

 

思えば、僕が触れてきた本や映画たちは

「これが幸せの本当の形なんだよ」

ということを何度も語りかけてくれていた。

 

 

大金を稼いで、有名になって、美女をはべらせて・・・

 

そんないわゆる「成功」を目指しても

幸せにはなれないのだろう。

 

 

そんなものはなくても

自分の大好きな人が側にいて

仲間たちと笑いあって

素敵な作品をゆっくりと愉しむ。

 

それさえあれば幸せになれる気がする。

 

昨夜みた「天使のくれた時間」も

そのことを教えてくれた映画だった。

 

 

この世の中はとかく「外ヅラ」に惑わされている。

 

岡本太郎の本を読んでいると、

たしかにそうだと心から納得させられる。

 

強くなくていい。

何者かにならなくていい。

 

自分が自分のままで

全力で挑んでいけばいい。

 

 

人生に正解はない。

 

何が正解かは自分しかわからないし

自分で決めなければならない。

 

 

こういうことを忘れずに、

周りの意見に流されずに

生きぬいていこう。

 

 

人から信用されるには

2週間ぶりのブログ更新。

 

 

昨日、インターン先の社長から

胸にズシンと響く一言を言われた。

 

「君は優柔不断で、飽き性で、気分屋だよね」

 

まったくその通りだと思った。

 

 

なぜならたった3日働いて「やめます」と言い、

 

その後に誘われた飲み会で

「やっぱこの会社楽しいかも」と思い直し

「やっぱりやります」

という始末。

 

さらに社長に

「この仕事は自分に向いてないから、

 こっちの仕事をやらせてほしい」

という提案までしておいて

 

「やっぱり時間的にインターンの僕に

 この業務は無理でした」

なんてぬかすことになった。

 

 

思えば最近の僕は

「やっぱり」ばかり言っている。

 

1度やる気になったかと思えば、

次の日に寝て起きるとテンションが下がり

「やっぱり違うな」と思ってしまう。

 

ダイエットとか自己完結することならまだしも

「これやるので任せてください」

と人に言ったのに、すぐに撤回するのは迷惑でしかない。

 

人の期待を裏切り、計画を狂わせてしまうことになる。

 

 

社長に言われた

「優柔不断で、飽き性で、気分屋だね」

という言葉は

 

一言でいえば

「君は信用できない」

ということだろう。

 

 

前に働いていた営業団体の副社長に

「能力があるやつが信用されるんじゃない。

 継続してやるやつが信用されるんだ」

と言われたのを思い出した。

 

「継続してやっている」

ただそれだけで信用される。

 

たしかにいくら能力があっても

3日でやめるようなやつにプロジェクトは任せられない。

 

 

しかし、継続するのはとても難しいことだ。

 

特に僕のような、興味の幅が広く

可能性を妄想しがちなタイプにとっては。

 

 

僕のような人間が継続できるようになるには

どうすればいいのか。

 

今日考えてみて出た答えはこうだ。

 

「出会った人との縁を大切にすること」

 

 

将来の可能性は無限にあるから、

今やっていることよりもっと楽しいこと、

もっと得することはきっとあるのだろう。

 

でも、それが何かはわからない。

何事もトレードオフだから、全てを選ぶことはできない。

 

ただ1つたしかなことは

出会った中で

「この人は好きだな」という人がいること。

 

そして好きな人たちに

価値を与えて、喜んでもらえることをする。

 

そうしたら、結局幸せな人生になる気がする。

 

 

今は家族に養ってもらっているから

こんなキレイごとが言えるのはわかっている。

 

だからこそ、余裕のあるうちに

将来稼ぐ力や、お金を生み出す仕組みを構築しておこうと思う。

 

僕は幸せもんだ。