岡本太郎「自分の中に毒を持て」

 

岡本太郎の「自分の中に毒を持て」を読んだ。

 

なんとも言葉には言い表しがたいが、

「このままではだめだ」という衝動に駆られている。

 

まだまだ咀嚼しきれていない感があるが、

とてつもない真理を喉元に突きつけられた感覚だった。

 

 

岡本太郎は常に自分と闘ってきた。

 

「幸福」は大嫌いだと切り捨て、危険の先にある「歓喜」を求めた。

 

うわべだけで成り立つシステムに抗い続け、

人々にその激情を表現し続けてきた。

 

 

小学1年生にして教師と対立し、3度も転校しているというから驚きだ。

 

ただの理想論者ではなく、その理想を「生き様」として体現し続けたことに

しびれる。

 

 

ひよっこの僕が岡本太郎と対面し、対話する機会を得たならば

なんという言葉を突き刺されるだろうか。

 

対話をする資格さえないのではないかとすら思える。

 

 

『「危険な道をとる」

いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。

死に対面する以外の生はないのだ』 p.19

 

岡本太郎は既存のシステムの中でぬくぬくと安住している日本人に

強い問題意識を持っていた。

 

皆、「死に対面すること」を避け、生命を燃やすことなく

ただ惰性で生きていると。

 

志もなく、ただ大学に通う僕に

「お前は死んでいる」と言われたかのようだ。

 

 

僕も安定・安心は嫌いだ。

 

でも怖さゆえに、いつのまにか安心の中にいる。

 

だからこそ生の実感が薄れていき、

虚無感が沸き起こるのだろう。

 

 

この本は劇薬だ。

 

真面目に向き合うと今までの人生を180度変えざるをえなくなる。

 

でも、出会えてよかった。

 

僕も岡本太郎のような強い問題意識を自分の中に醸成して、

周りの人たちに「それでいいのか」と訴えかける存在になりたい。

手に取られなかった作品たち

僕にはお気に入りの場所がある。

 

数千冊の本に囲まれたカフェだ。

 

今日はそのカフェで「トリツカレ男」という小説を

じっくりと読んでいた。

 

 

本を読み終わり、僕は深い感動に包まれた。

 

それと同時に、

この世界で無数に語られてきた物語の全てを

僕は知ることができないのだと悟った。

 

 

物語にはとてつもない力がある。

 

いくら論理的に説得されても心に響かなかったことが

たった1つの物語でストンと納得できてしまったりする。

 

セールスを学んでいたときも、

物語(ストーリー)の力には何度も驚かされた。

 

それだけ、物語は人を動かす力がある。

 

 

そんな物語を創ってきた人々は、

伝えたい「何か」があるのだろう。

 

今回読んだ「トリツカレ男」からは、

 

「好きなことに本気で取り組む姿勢」

「大切な人のために自分の命を投げ出す勇気」

 

これが大切なんだと、ひしひしと伝わってきた。

 

 

もし僕に子どもができたら、

読んでほしい本、知ってほしい物語は

数え切れないほどになっているだろう。

 

けど、押し付けられて読むのはなにか違う気がする。

 

いろいろな偶然が重なって

その子が自分で手に取った物語にこそ、

意味があると思う。

 

 

結局、何が言いたいのかわからなくなってきたが

 

自分の時間には限りがあること

限りある人生の中での出会いを大切にして、

全力で楽しむこと

 

こんなことに気づかせてくれた読書体験だった。

 

 

 

個を生きる vs 公のために生きる

夏休みに入り、自由な時間が増えたことで

物思いにふける時間も増えた。

 

最近考えるテーマは、「何のために生きるのか」ということ。

 

その軸の1つとして

「個人の幸福の追求」と「社会貢献の追求」がある。

 

簡単にいえば、

自分のために生きるか

社会のために生きるか。

 

どちらも欠いてはいけない要素なのはもちろんであるが、

自分の理想郷にたどり着くためには

どちらをより追求すべきなのかということ考えたい。

 

 

「公のために」を貫く生き方はどんなだろう。

 

ジャンヌ・ダルクには憧れるが、

果たしてジャンヌ自身は「幸せな人生であった」

という実感を持って死んでいったのだろうか。

 

そこが気になる。

 

 

逆に「個人の幸福」を追求するとしたら

 

好きな人と結婚して子どもを育てて

ある会社のある事業の一端を担い、

のんびりとした老後を迎えて死ぬ。

 

こんな人生になるのだろう。

 

もちろん社会には貢献しているが、

世界を前に進めるほどの貢献ではない。

 

 

僕はけっこう野心家なので、

明確な根拠はないが何か大きなことを成し遂げたい。

 

この世に意味なんてないのかもしれないけど

大きな意味のあることをしたい。

 

 

ただ、こういう大きなことばかりを考えるのは

「独り」だからなのかもしれない。

 

愛する恋人や子どもができたときに

「目の前のこの人たちを幸せにしたい」という思いが強まって、

自分の言動は180度変わることもありえる。

 

そうであると仮定すると、

少なくとも「次の世代につながる」ことをしたい。

 

自分の子ども、またその子どもが

尊厳をもって自由に生きられる社会になるように。

 

 

自分が生きている間だけの短期的な利益だけを求める

浅ましい人間にだけはなりたくない。

 

例えば、遺伝子組み換え食品を自社の利益拡大のために

むやみに推し進めるのは本当に許せない。

 

 

さまざまな人間の意図が複雑に絡み合う世界を

紐解くのはとても難しい。

 

でも、それでも世のために自分に何ができるか

何を残せるのか考え続けていきたい。